大衆車
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日本製大衆車の席巻
日本の大衆車はアメリカ合衆国に輸出され、1980年代にはジャパンバッシングに代表される感情的な米国内自動車産業界の反発を招くほどに市場を席巻したが、その進出の歴史は最初から順風満帆というわけでもなく、日本国内の自動車産業が大衆車の開発・発展に伴い円熟する1970年代まで待たねばならなかった。
日本車のアメリカへの本格輸出は、大衆車が生まれる以前の1960年頃から始まり、トヨタからはクラウンとランドクルーザー、日産からはダットサン・トラック220型、セダン210型、スポーツS210型が輸出された。
トラック並のシャシに排気量3.9 Lのエンジンを搭載したランドクルーザーは評判が良かったが、クラウンは当時のトヨタにおける最高級車であったにもかかわらず、カリフォルニア・ハイウェイパトロール(CHiPs')のテストでは高速走行時の操縦安定性が危険とされるレベルであり、オーバーヒートや焼きつきも頻発し、早々に輸出が中止された。後にT20系コロナもクラウンにあやかった「ティアラ」の車名で北米進出を果たしたが、良い評価は得られないまま輸出を中止している。また、トヨタ初の大衆車であるパブリカは極少数しか輸出されなかった。
トヨタは、クラウンやコロナのための販売会社とショールームをロサンゼルスに設けたが、肝心の商品が全くない状態となってしまい、カローラの本格的な輸出が始まるまでは、ランドクルーザーの販売のみで北米会社を支える日々が続いた。
ダットサン各車は、もとより丈夫なオースチン車のコピーであったため、最高速度が遅い点以外に大きな不満はなかったが、貧相で小さすぎることから売れ行きは芳しくなかった。しかし、後に北米日産の社長となる片山豊が、自らの運転で現地ディーラーへの飛び込み営業を続けた結果、次第に品質が認められ、フェアでフレンドリーな片山の人柄もあって着実に販売網を増やし続け、1970年代の大躍進につながった。
トヨタや日産が本格的な乗用車の輸出を試みて苦戦していたこの時期、スバルやホンダといった軽自動車中心のメーカーは、360ccのエンジンを400 - 600ccのものに換装した上で北米や欧州に輸出し、それなりの実績を上げていた。これらは本格的な乗用車ではなく、粗末なバブルカーの代替となるシティコミューターとして受け入れられたものである。戦後の輸出市場における日本車の強みが「小型・軽快」であることは、この時点で確定していた。
一方、カローラやサニーの輸出は1967年モデルからと、日本車のアメリカ進出としてはやや後発の部類に入る。
注釈
- ^ それ以前は2サイクルが240 cc以下、4サイクルが360 cc以下と定められており、2サイクルでの成立は不可能だった。当時は、同じ排気量であれば4サイクルより2サイクルの方が高出力を得やすいと考えられていたことによる。
- ^ 日本経済新聞、日刊工業新聞がスクープ記事を掲載したのみで、通商産業省からの発表は行われていない。
- ^ 後に駆動方式を後輪駆動に変更し、空冷水平対向2気筒700 ccの「パブリカ」として結実した。
- ^ 全国的に最高40 ℃、最低-10 ℃程度、北海道などでは最低-30 ℃以下も想定しなければならない(気象庁のデータより)。
- ^ N17系(中国およびミャンマー)、N18系(中東諸国)。いずれも日本では「ラティオ」(N17のみ)、アメリカでは「ヴァーサ」を名乗るモデル。
- ^ 軽自動車に64馬力の出力規制が設けられる発端となった。
- ^ 4CVの系譜は上級のドーフィン→8/10へと受け継がれた。
出典
- ^ 『60年代 街角で見たクルマたち 日本車・珍車編』p. 122 。同書によれば「国民車」と銘打ったのは三菱500が初という
- ^ 祝50周年! カローラの歴史を振り返る GAZOO.com 2016年8月22日
- ^ GAZOO - ヒンドゥスタン アンバサダー 1959年1月~
- ^ ただし設立は1981年
- ^ 3代目アルト(大宇・ティコの項を参照)、ラボ/ダマス(キャリイ/エブリイ)を排気量アップの上で生産
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