塩谷正義 (代官) 塩谷正義 (代官)の概要

塩谷正義 (代官)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/19 19:11 UTC 版)

 
塩谷正義
時代 江戸時代
生誕 明和6年6月14日1769年7月17日[1]
死没 天保7年9月8日1836年10月17日
別名 大四郎、秀五郎、大五郎(通称)、惟寅(これのぶ)
戒名 唯一院殿成善日道居士
墓所 谷中妙情寺
官位正五位[2]
氏族 塩谷氏、粟津氏
父母 実父:粟津清喬、実母:名不詳[3]
養父:塩谷奉正
養母:勝市郎右衛門命雅[4]
兄弟 粟津清喬次男として
粟津清郷[5]正義、粟津留蔵、
粟津清祥、三島政博[6]

塩谷奉正婿養子後
正房、女子、正住[7]
安藤図書定堅室(養女)[8]
女子(養女)[9]正義(養子)、
かね塩谷正義室・養女)[10]
鈴木正誼[11]、八五郎[12]
塩谷かね
正路、定、いさ、しげ、女子
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  1. ^ 水路は塩谷が郡代を退官したのちの1868年(明治元年)、南一郎平と広瀬久兵衛の工事により完成した[18]
  1. ^ 明和7年(1770年)生まれの説もあり。
  2. ^ 明治45年(1912年)追贈
  3. ^ 文政7年(1824年)没
  4. ^ 勝海舟高祖父
  5. ^ 母は江間氏女だが、正義は異母弟。
  6. ^ 伊豆守、所左衛門。江戸城二の丸留守居役より御台様御用人となる。
  7. ^ まさをり、時之丞。系譜には『病者たるにより嗣たらず』とあり。
  8. ^ 弟である塩谷正澄の娘。経緯は不明だが、奉正の養女となり、安藤正堅の妻となった。
  9. ^ 中村浅右衛門孝邦の娘。経緯は不明だが奉正の養女となった。
  10. ^ 義兄正房の長女。
  11. ^ 始め正英。備前守、捨五郎、九郎右衛門。鈴木三次郎正昌の養子となり、京都仙洞御所付となる。
  12. ^ 系図にも『某』とあり、名は不明。
  13. ^ 『ふるさと矢板 第七号』(矢板市文化財愛護協会 平成三年七月)では、この地に広い将軍家の御鷹場があったことから、鳥見役の役宅で生まれたと推測している。
  14. ^ 塩谷氏系図の表記に従う。病弱なのか、障害があったものか、精神的なものかは不明。
  15. ^ を良綱。正蔵が館ノ川長興寺に納めた由緒書によれば、宇都宮国綱の弟である結城朝勝より数えて11代目の子孫であるという。明和3年(1766年)生まれ、文政11年(1828年)9月7日没、享年63。愛蔵、伝蔵(始め茂知蔵)の2人の男子があり、2人とも広瀬淡窓の咸宜園に入塾している。
  16. ^ 最終的には4棟建設された。
  17. ^ 「田野村」。角川日本地名大辞典(旧地名編)。
  18. ^ a b 大分県 2012.
  19. ^ 文政7年(1824年)10月21日から11月5日まで。
  20. ^ 隈町=13貫(約250両)、豆田町=7貫(約140両)、その他の郡の村々=30貫余(約580両)など。


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