豊前浜の干拓事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 16:13 UTC 版)
「塩谷正義 (代官)」の記事における「豊前浜の干拓事業」の解説
正義の西国郡代としての最大の事業が豊前浜の干拓事業であった。文政7年(1824年)から計画され、幕府領のみならず、肥前島原藩松平家の領地を始めとして、中津藩、立石藩、日出藩、杵築藩、延岡藩の各領地や宇佐神宮の神領にもまたがる大事業で、その政治的な調整から協力者、資金集めまで、正義が最も労苦を尽くした事業であった。文政9年(1826年)から次々と干拓、新田開発が起工され、天保5年(1834年)まで続くものとなった。ただ、それは正義が関わった期間に限るもので、この干拓・新田開発事業は、最終的には大正10年(1921年)まで続けられており、その先駆者としての正義の偉業は、明治45年(1912年)に贈正五位、昭和11年(1936年)9月には大分県の呉崎で没後100年祭が行われ顕彰されるほどであった。 しかしこの事業では、多大な資金的負担や労役による過酷な負担に苦しめられた者たちも多く、開発された新田の年貢米の1割が、その功績をたたえる名目で終身正義に与えられることになっていたことから、民衆の不満が高まる決定的な要因にもなった事業であった。
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