咸宜園への干渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 16:13 UTC 版)
「塩谷正義 (代官)」の記事における「咸宜園への干渉」の解説
咸宜園は広瀬淡窓による私塾であったが、正義は何度かこれを代官管轄の官学にしようと干渉を行った。淡窓はこれを官府の難と言って恐れ、淡窓自身が書いた『懐旧楼筆記』に「近年官府の災難頻り(しきり)に起こり」と記している。最終的に淡窓は咸宜園の私塾の地位を守り続けたが、干渉の中には、正義の家来である宇都宮正蔵の次男茂知蔵が学業を怠ったことを理由に淡窓が叱責すると、ちょうど茂知蔵の父親である正蔵が亡くなった時期とも重なり、「父無し子になった茂知蔵をしりぞけた」と淡窓を問責するという理不尽なものもあった。
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