各務支考
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/28 02:35 UTC 版)
以下の一部分 | 蕉門十哲 |
---|---|
性別 | 男性 |
国籍 | 日本 |
母語表記 | 各務支考 |
姓 | かがみ、各務 |
読み仮名 | かがみ しこう |
生年月日 | 1665 |
出生地 | 山県郡 |
死亡年月日 | 14 3 1731 |
死没地 | 大智寺 |
埋葬地 | 大智寺 |
使用可能言語 | 日本語 |
職業 | 俳人、著作家 |
弟子 | 彭城百川 |
師匠 | 松尾芭蕉 |
宗教 | 仏教 |
ムーブメント | 美濃派 |
幼少より俳才を発揮し、元禄のころに松尾芭蕉の門下に入る。森川許六とともに論客と知られたが、性格は利己主義的だとして悪評もあった。後年、美濃派の育成に努めた。著書は『笈日記』・『俳諧十論』・『葛の松原』など多数。
生涯
幼少の頃父を失い、禅刹大智寺に入るが、19歳頃に下山して還俗し、次姉の嫁ぎ先の各務宗三郎方に入籍する[1]。以後、京都や伊勢山田にいたか。元禄3年(1690年)3月、近江で松尾芭蕉に対面入門し、翌年芭蕉に従って江戸に下向する[1]。元禄5年(1692年)陸奥行脚を行い、処女作の俳論書『葛の松原』を発表する[1]。元禄7年(1694年)、伊賀から大坂へ向かう芭蕉の旅に同行し、芭蕉の臨終を看取る[1]。このとき芭蕉の遺書を代筆している。
芭蕉没後、伊賀・伊勢・近江・江戸などを巡り、諸国行脚と追善興行を繰り返した[1]。この間、芭蕉の遺吟・遺文を集めて『笈日記』を著している。正徳元年(1711年)に佯死し、以後自らを先師と呼び、蓮二坊・渡辺ノ狂などの変名を名乗る[1]。この頃、伊勢山田に草庵(十一庵)を結び拠点としている。『伊勢新百韻』を刊行したころから支考独自の作風が確立された。その後、九州・中国・四国・北陸など各地を精力的に旅し、句集や俳論などを盛んに出版。また多くの弟子を育成していく。享保4年(1719年)に加賀千代女を訪問し、美婦で「あたまからふしぎの名人」と喧伝した[2]。
享保9年(1724年)以降、郷里の美濃山県に定住し、蘆元坊里紅に道統を譲り、獅子庵で没した[1]。享年67。死の直前まで執筆を続けており、『論語先後鈔』が絶筆となる。大智寺に生前、自ら建てた墓に葬られた。墓碑銘は「梅花佛」。蘆元坊によって支考の追善集『文星観』が刊行されている。
各務支考から蘆元坊に伝えられた道統は美濃派、または獅子門と称する[1]。獅子門は、現在第四十一世道統に引き継がれ綿々と活動が続けられている(獅子門 (https://shishimon-web8.webnode.jp))。晩年の住まいだった獅子庵は岐阜県の史跡に指定されている[3]。
別号一覧
- 盤子
- 野盤子
- 見龍
- 東華坊
- 西華坊
- 蓮二
- 蓮二坊
- 十一庵
- 獅子庵
- 獅子房
- 獅子老人
- 渡辺ノ狂
- 白狂
- 羚羊子
- 是仏房
- 瑟々庵
- 万寸
- 饅丁
- 華表人
- 羶乙子
- 表蝶子
- 博望士
- 烏有仙
- 黄山老人
- 坊主仁平
- 佐渡入道
- 霊乙
- 橘尼子
- 桃花仙
- 松尊者竹羅漢
- 卉名連
注釈
出典
各務支考と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 各務支考のページへのリンク