占守島
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占守島の戦い
1945年8月15日(モスクワ時間8月14日)、日本のポツダム宣言受諾通告後、極東ソビエト軍総司令官は、第2極東方面軍司令部と太平洋艦隊司令部に対し、カムチャツカ現有勢力により千島列島北部の占領を目的とする作戦の準備及び実施を命令した。なお、千島列島南部は、北千島とは別にサハリン(樺太)からの部隊が攻略する計画だった[注釈 2]。
ソ連軍の占守島上陸はポツダム宣言受諾に伴う日本軍の武装解除の最中、8月18日未明に開始され、急遽、武装解除を取り止めた日本軍守備隊の第91師団などと戦闘になった。戦闘は一旦はソ連軍を上陸地点である竹田浜にまで追い落とす状態で推移していたが、日本側は第5方面軍の戦闘停止命令に従い、軍使を派遣して停戦交渉を行い、8月21日に日本軍第91師団長が降伏を定めた文書に署名し、完全に停戦が成立した。24日までに、占守島・幌筵島の日本軍は武装解除された。ソ連側死傷者数は日本側死傷者数を上回ったことが判明している(ソ連側資料では日本側死傷者約1,018名、ソ連側約1,567名)。
その後、新知島までの北部千島の日本軍は、8月27日までに武装解除された。9月初旬までに全千島がソ連軍に占領された。千島列島では占守島以外で戦闘はなかった。降伏後、武装解除された日本兵はシベリアへ抑留された。"
2014年以降、サハリン州の調査団が占守島を調査。日本兵およびソ連兵の遺骨を収集した。2015年11月までに27柱が日本側に引き渡されているが、身元が特定できたのは1柱のみ。2016年7月にも調査は行われ、遺骨や日本軍のカノン砲が収集されている[5]。
2017年7月19日、民間団体約20人がカムチャツカ半島からヘリコプターで激戦地の四嶺山を訪れ慰霊祭を実施。現地の慰霊祭は、2005年に日本政府主催で行われてから12年ぶりの開催[6]。
注釈
出典
- ^ “International Kuril Island Project(IKIP、国際千島調査、英文)”. University of Washington Fish Collection or the respective authors. 2009年7月27日閲覧。
- ^ ソニーを創った男 2002, p. 25-26.
- ^ a b 高瀬克範, 鈴木建治「馬場コレクションの再検討 : 北千島の竪穴住居・土器・石器の基礎的研究」『北海道大学文学研究科紀要』第140号、北海道大学大学院文学研究科、2013年、1-56頁、ISSN 1346-0277、NAID 120005301705。
- ^ 馬揚脩「北千島占守島の第二回考古學的調査報告」『人類學雜誌』第51巻第3号、日本人類学会、1936年、91-115頁、doi:10.1537/ase1911.51.91、ISSN 0003-5505、NAID 130003881906。
- ^ 2016年8月7日 北海道新聞1面
- ^ 占守島で日本人慰霊祭 12年ぶり、民間団体主催産経新聞フォト(2017年7月19日)2017年7月20日閲覧
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