内藤新宿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 13:32 UTC 版)
逸話
旗本・内藤新五左衛門(新五郎・新左衛門とも)の弟に、大八という者がいた。大八は内藤新宿の旅籠屋へ遊びに出かけて飯盛女と揉め、下男により袋叩きにされるという醜態をさらしてしまう。これを知った兄の新五左衛門は、大八を切腹させて大目付の元へ弟の首を届け、自らの知行と引き換えに、武士を侮辱した宿場の廃止を要求したという話がある。内藤新宿廃止の原因として伝えられた事件だが、この事件が本当に起こったものなのかは不明である。
遊女の取り締まり
甲州街道の内藤新宿では、次第に旅籠屋や茶屋が増え、岡場所としても賑わった。宿場に遊女を置くことは認められていなかったが、客に給仕をするという名目で飯盛女・茶屋女として置かれていた。
享保3年(1718年)には、宿場内に旅籠屋が52軒という記録が残っている。しかし、吉原がしばしば奉行所に提出していた遊女商売取り締まり願いの対象地になり、これが宿場廃止の原因の一つになったという。したがって、享保三年(1718年)10月に内藤新宿は幕府によって廃止された。
その後、明和元年(1764年)に、幕府はそれまで「旅籠屋一軒につき飯盛女は2人まで」とされていた規制を緩め、宿場全体で上限を決める形式に変更。品川宿は500人、板橋宿・千住宿は150人までと定められ、結果として飯盛女の大幅な増員が認められた。
ところで、内藤新宿は明和九年(1772年)高松喜六(5代目)の請願によって再開の許可が下りた。また、再開に際して内藤新宿の飯盛女は、板橋宿・千住宿と同じく宿場全体で150人までと定められた。
関連作品
内藤新宿の繁栄は、芸術や文学の世界にも残されている。以下は代表的なものである。
- 錦絵『名所江戸百景』より「四ッ谷内藤新宿」:歌川広重の作。
- 錦絵『江戸名所百人美女』より「志ん宿」:歌川豊国(3代目)の作。
- 洒落本『甲駅新話』:馬糞中咲菖蒲の作(大田南畝の変名)。甲駅とは甲州街道の宿場で内藤新宿のこと。
- 落語『文違い』『五人廻し』:内藤新宿を舞台にした落語の廓噺。「五人廻し」の舞台は吉原との説もある。
名所・旧跡
- 太宗寺
- 仲町のすぐ北、内藤新宿の中央付近にある寺院。周囲に門前町も形成していた。江戸六地蔵の第三番、都内最大の閻魔大王像、「しょうづかの婆さん」と呼ばれ飯盛女たちの信仰を集めた奪衣婆像など、多くの文化財が現存する。
- 正受院
- 太宗寺の北、成覚寺と隣接する寺院。「綿のおばば」と呼ばれた奪衣婆像がある。嘉永元年(1848年)の年末から翌年にかけて評判となり、江戸中から内藤新宿へ参詣客が押し寄せる騒ぎとなった。この奪衣婆像を題材にして多数の錦絵が描かれている。
- 成覚寺
- 太宗寺の北、正受院と隣接する寺院。内藤新宿の飯盛女の投げ込み寺であった。共葬墓地に葬られた飯盛女たちを弔う「子供合埋碑」や、心中した男女らを供養するための旭地蔵など、内藤新宿繁栄の裏面を伝える文化財が残る。また、江戸時代中期の戯作者・恋川春町の墓がある。
- 天龍寺
- 上町の南にある寺院。江戸城裏鬼門鎮護。定刻より早く鐘を鳴らしたため、内藤新宿で遊行する人々に「追出しの鐘」と呼ばれた梵鐘、「時の鐘」が現存する。内藤新宿は江戸の外れにあり、武士が登城に遅れぬようにとの理由であった。
- 花園神社
- 上町の北にある神社。新宿総鎮守。江戸時代には「三光院稲荷」と呼ばれていた。町の守り神として信仰を集め、境内に設けた芝居小屋で行なわれた歌舞伎・義太夫などの「三光院芝居」は評判を呼んだ。
- ^ ロム・インターナショナル(編) 2005, p. 144.
- ^ 慶長9年(1604年)に上高井戸宿・下高井戸宿に分割され、月初から15日までは下高井戸宿が、16日から月末までは上高井戸宿が利用された。
- ^ 『江戸の宿場町新宿』によると、現在の貨幣価値に換算して10億円以上とされる。
- ^ 街道の分岐点で、茶店や太宗寺の門前町が存在していた。内藤家の領地内であったため、内藤宿と呼ばれており、寛永2年(1625年)には幕府に公認されていたという。
- ^ 『江戸切絵図集成』(文久2年(1862年))による。仲町のすぐ北には太宗寺があり、仲町の一部には門前と記されている。なお、新宿追分のある上町は現在の新宿三丁目、仲町は新宿二丁目、下町は新宿一丁目にほぼ該当する。
- ^ 江戸名所図会 1927, p. 274.
- ^ 『改訂 四谷散歩』による。
固有名詞の分類
- 内藤新宿のページへのリンク