公娼 近代公娼制

公娼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/07 16:02 UTC 版)

近代公娼制

日本の公娼制

日本における公娼制度の歴史は、必ずしも明らかではなく、1193年建久4年5月15日)に、遊女屋および遊女を取り締まるために、源頼朝里見義成に遊女別当を命じた(『吾妻鏡』)ことが、関連する史実の文献初出であろうという。[独自研究?]

室町時代足利氏は、1528年大永8年)、傾城局をもうけ、竹内新次郎を公事に任じ鑑札を与えて税金を取った。売春業を公に認めたのである[要出典]

戦国時代には、続く戦乱によって奴隷売買も盛んになり、遊女も増えた[要出典]。「天文永禄のころには駿河の富士の麓に富士市と称する所謂奴隷市場ありて、妙齢の子女を購い来たりて、之を売買し、四方に輸出して遊女とする習俗ありき」[52]と言う。

豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」 やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」 [53]のだという。

江戸時代の公娼制・遊廓

江戸時代に入ると、麹町道三町、麹町八丁目、神田鎌倉海岸、京橋柳橋に遊女屋がいとなまれた[要出典]

徳川家康は『吾妻鏡』に関心を示し、秀吉の遊廓政策に見習い、徳川安泰を謀り、柳町遊女屋庄司甚右衛門に吉原遊廓設置許可を与えた。庄司甚右衛門は「(大遊廓をつくって)お大阪残党の吟味と逮捕」を具申したのである。甚右衛門はこう述べた。1、大阪残党の詮議と発見には京の島原のような規模が適切である。2、江戸に集まる人々の性犯罪の防止のため3、参勤交代の武家の性処理4、江戸の繁栄に役立つ。幕府は三都の遊廓(吉原、京の島原、大阪新地)を庇護して税金を免除し、広大な廊内に自治権を与え、業者を身内扱いしたのであった[要出典]。将軍代替わりの祝儀、料理人の派遣、摘発した私娼の引渡しがなされ、江戸では1666年に私娼大検挙がなされ、湯女512人が吉原に引き渡され吉原の繁栄をもたらした[54]明治以降の日本の「公娼制度」にも政府と遊廓との結びつきが見られるのは、江戸時代に幕府と遊廓業者が結びついたこの伝統下にあると言える[要出典]江戸幕府は、散在する遊女屋を特定地域に集合させるために、1617年元和3年)、日本橋葺屋町界隈に遊廓の設置を許可し、ここを「吉原」と命名した。1657年明暦3年)に、浅草日本堤下に移転(新吉原)を命じた。この時、5箇条の掟書を出して、その取締規則によって営業させた。すなわち、

一、傾城町の外傾城屋商売致すべからず、竝に傾城囲の外何方より雇ひ来候とも先口へ遣はし候事向後一切停止さるべく候。
二、傾城買ひ遊候者は一日一夜の外長留り致間敷候事。
三、傾城の衣裳総縫金銀の摺箔等一切著させ申間敷候何地にても紺屋染を用ひ申すべく候事。
四、傾城屋家作普請美風に致すべからず、町役等は町々の格式通り屹度相勤め申すべき事。
五、武士町人体の者に限らず出所吟味致し不審に相見え候者は奉行所へ訴出づべき事。

こうして江戸に遊廓が設置され、ついで京都伏見兵庫大津などにも公認の遊廓が設置された。その一方で、市中にひそむ私娼を取締まり、これを禁じた。このため、城下町や駅路でいとなまれる遊女屋は、「はたごや」という名目をとり、そこの遊女を「こども」、「めしもりおんな」などといった。

こうして二百数十年間に渡って日本各地に遊廓が栄え、江戸文化の1つとなったが、やがて、性病が蔓延し、幕末には約三割が梅毒感染者であったとも言う。家康自身が70を過ぎて淋病にかかり、他におおくの感染者がいた[55]

明治時代以降の公娼制

朝鮮の公娼制

平壌にあった妓生学校

妓生制度

朝鮮には、中国の妓女制度が伝わった妓生(きしょう、기생、キーセン)制度があった[28]。韓国の梨花女子大学校編『韓国女性史』(1978年)によれば、妓女制度はもとは宮中の医療や歌舞を担当する女卑として妓生(官妓)を雇用する制度であったが、のちに官吏や辺境の軍人の性的奉仕を兼ねるようになった[28][56]山下英愛は「朝鮮社会にも昔から様々な形の売買春が存在した。上流階級では高麗時代に中国から伝わったといわれる妓女制度があり、日本によって公娼制度が導入されるまで続いた」と述べている[28]川田文子は、妓生のほかに雑歌をたしなむ娼女、流浪芸能集団であった女社堂牌(ヨサダンペ)、色酒家(セクチュガ)で働く酌婦などの形態があったが、特定の集娼地域で公けの管理を行う公娼制度とは異なるものであるとした[44]

また、在日朝鮮人歴史学者の金富子梁澄子[57]在日韓国人の評論家の金両基[58]らは、妓生制度は売買春を制度化する公娼制度とは言えないと主張している。金両基は多くの妓生は売春とは無縁であり、漢詩などに名作を残した一牌妓生黄真伊のように文化人として認められたり、妓生の純愛を描いた『春香伝』のような文学の題材となっており[59]、70年代から90年代にかけて主に日本人旅行客の接待に使われたキーセン観光はとはまったく違うものであると反論した[59]。(公娼の定義については#概念・大要を参照)

山地白雨が1922年に刊行した『悲しき国』(自由討究社)では「妓生は日本の芸者と娼妓を一つにしたやうな者で、娼妓としては格が高く、芸者としては、其目的に添はぬ処がある」「其最後の目的は、枕席に侍して纏綿の情をそそる処にある」と記している[60]。同じ1922年に刊行された柳建寺土左衛門(正木準章)『朝鮮川柳』(川柳建寺社)では妓生を朝鮮人芸者のことで京都芸者のようだとし、蝎甫(カルボ)は売春婦であると書かれ[61]、1934年の京城観光協会『朝鮮料理 宴会の栞』では「エロ方面では名物の妓生がある。妓生は朝鮮料理屋でも日本の料理屋でも呼ぶことができる。尤も一流の妓生は三、四日前から約束して置かないと仲中見られない」とあり、「猟奇的方面ではカルボと云うのがある。要するにエロ・サービスをする女である」「カルボは売春婦」であるとして、妓生とカルボとを区分して書かれていた[62]。(蝎甫(カルボ)については後述する)

川村湊は「李朝以前の妓生と、近代以降のキーセンとは違うという言い方がなされる。江戸期の吉原遊廓と、現代の吉原のソープランド街が違うように。しかし、その政治的、社会的、制度的な支配−従属の構造は、本質的には同一である」とのべ[63]、現代のソウルの弥亜里88番地のミアリテキサス清凉里 588といった私娼窟にも「性を抑圧しながら、それを文化という名前で洗練させていった妓生文化の根本にあるものはここにもある」とも述べている[64]

日本の遊廓業の進出から近代公娼制の確立

日本統治下の公娼制


  1. ^ 大辞林、三省堂、1988.
  2. ^ 山下英愛「朝鮮における公娼制度の実施」ユン貞玉編『朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」』三一新書,1992年,p129.
  3. ^ a b c 秦郁彦「慰安婦と戦場の性」 1999, p. 145
  4. ^ 藤目ゆき・「性の歴史学 公娼制度・堕胎罪体制から売春防止法・優生保護法体制へ」1997,p51
  5. ^ a b 人身売買排除」方針に見る近代公娼制度の様相」立命館大学人文科学研究所紀要 93, 237-268, 2009,p237-238
  6. ^ 「日本遊郭史」(上村行彰) p118 吉原の開基 三カ条の覚書
  7. ^ [1]、著者ブログ(2013-11-25)週刊プレイボーイ記事(転載)(2013-11-26)
  8. ^ 公娼『大思想エンサイクロペヂア』30巻 (春秋社, 1930) p81
  9. ^ a b c d e f 山田宏「売春」世界大百科事典平凡社、2007,p333
  10. ^ a b c d 山手茂「売春」日本大百科全書、小学館、1987
  11. ^ 齋藤茂「妓女と中国文人」(東方選書、2000年)p13
  12. ^ a b 齋藤茂「妓女と中国文人」(東方選書、2000年)p14
  13. ^ 金の李天民の『南征録匯』。『武功記』
  14. ^ 『靖康稗史証』「宣和乙巳奉使金国行程録」、「瓮中人語」、「開封府状」、「呻吟語」、「宋俘記」、「南征録匯」
  15. ^ 中国网
  16. ^ 中国百科在线
  17. ^ 『靖康稗史証』
  18. ^ 『靖康稗史箋證・卷5』賜宋妃趙韋氏、鄆王妃朱鳳英、康王妃邢秉懿、姜酔媚,帝姫趙嬛嬛、王女粛大姫、粛四姫、康二姫,宮嬪朱淑媛、田芸芳、許春雲、周男児、何紅梅、方芳香、葉寿星、華正儀、呂吉祥、駱蝶児浣衣院居住者。
  19. ^ 『靖康稗史箋證・卷3』康一即佛佑、康二即神佑均二起北行、入洗衣院
  20. ^ 『呻吟語』建炎二年 即金天會六年 八月二十四日・・・・婦女千人賜禁近,猶肉袒。韋、邢二后以下三百人留洗衣院
  21. ^ 『開封府状』
  22. ^ 『南征録匯』:原定犒軍費金一百萬錠、銀五百萬、須於十日内輪解無闕。如不敷數、以帝姫、王妃一人准金一千錠、宗姫一人准金五百錠、族姫一人准金二百錠、宗婦一人准銀五百錠、族婦一人准銀二百錠、貴戚女一人准銀一百錠、任聽帥府選擇。確庵『靖康稗史箋証』
  23. ^ 『呻吟語』
  24. ^ 『靖康稗史箋證・卷6』「呻吟語」「燕人麈」
  25. ^ 『靖康稗史箋證・卷6』「呻吟語」朱后歸第自縊、甦、仍投水薨。
  26. ^ a b c d e 李能和『朝鮮解語花史』東洋書院、1927年。「李能和全集2」韓国学研究所
  27. ^ 川村湊『妓生』p.20
  28. ^ a b c d e f g 山下英愛「朝鮮における公娼制度の実施」尹貞玉編『朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」』三一新書,1992年,p131.
  29. ^ 山下英愛「朝鮮における公娼制度の実施」尹貞玉編著『朝鮮人女性がみた慰安婦問題』三一新書,1992.
  30. ^ 川村湊『妓生』p.21
  31. ^ a b 野村伸一: 「賤民」の文化史序説ー朝鮮半島の被差別民(補遺)(2008年。野村「賤民」の文化史序説(『いくつもの日本5』岩波書店、2003年所収)を補訂したもの)2012年11月15日閲覧
  32. ^ a b c d e 朴禮緒「〈朝鮮歴史民俗の旅〉妓生 (1)」朝鮮新報 2004.10.30
  33. ^ 川村湊『妓生』p.23
  34. ^ 『妓生』p.28
  35. ^ 梨花女子大学韓国女性史編纂委員会『韓国女性史』1,梨大出版部、1978年。p519-520
  36. ^ a b 川村湊『妓生』p.34
  37. ^ 川村湊『妓生』p.33
  38. ^ a b c d e f 川村湊『妓生』p.35-38
  39. ^ a b c 林鍾国『ソウル城下に漢江は流れる』(平凡社1987年),p148-149
  40. ^ a b c d 『ソウル城下に漢江は流れる』(平凡社1987年),p150-151
  41. ^ 藤永壮「植民地朝鮮における公娼制度の確立過程―1910年代のソウルを中心に―」京都大学大学院文学研究科・文学部・現代文化学系「二十世紀」編『二十世紀研究』第5号、2004年12月
  42. ^ a b c 『ソウル城下に漢江は流れる』(平凡社1987年),p147
  43. ^ a b 川村湊『妓生』p.43
  44. ^ a b 川田文子「戦争と性」明石書店,1995年。p76-77
  45. ^ a b c d e f g h i j k l m 川村湊『妓生』p.44-51
  46. ^ 川村湊『妓生』p.112-3
  47. ^ 川村湊『妓生』p.113
  48. ^ a b c d e f 川村湊『妓生』作品社、2001年、p.40-43
  49. ^ 川村湊『妓生』作品社、2001年、p.38-39
  50. ^ バーン&ボニー・ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991年,p206
  51. ^ ヒックス1995,p23
  52. ^ 『日本奴隷史』阿部 弘臧
  53. ^ 『日本売春史』中村三郎
  54. ^ 『売笑三千年史』中山太郎
  55. ^ 『徳川家康』北島正元
  56. ^ 梨花女子大学校韓国女性史編纂委員会『韓国女性史』第一巻、梨大出版部、1978年、p519
  57. ^ 従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク『もっと知りたい「慰安婦」問題ー性と民族の視点からー』金富子・梁澄子著、明石書店、1995年、p26
  58. ^ 『日韓歴史論争-海峡は越えられるか』p86、櫻井よしこ、金両基、中央公論社
  59. ^ a b 『日韓歴史論争-海峡は越えられるか』p95、櫻井よしこ、金両基、中央公論社
  60. ^ 川村湊『妓生』作品社、p117
  61. ^ 川村湊『妓生』p165
  62. ^ 川村湊『妓生』p181
  63. ^ 『妓生』作品社、p12
  64. ^ 『妓生』作品社、p14


「公娼」の続きの解説一覧




公娼と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「公娼」の関連用語

公娼のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



公娼のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの公娼 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS