倭迹迹日百襲姫命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/09 03:51 UTC 版)
墓
(奈良県桜井市)
墓は、宮内庁により奈良県桜井市箸中にある大市墓(おおいちのはか、北緯34度32分21.45秒 東経135度50分28.53秒)に治定されている[6][7]。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「箸墓古墳(箸中山古墳)」で、墳丘長278メートルの前方後円墳である。
前述のように『日本書紀』では百襲姫は「大市」に葬られ、人々はこれを「箸墓」と称したと記されている[8]。墓は同書天武天皇元年(672年)7月23日条において「箸陵」とも見えるが、『延喜式』諸陵寮(諸陵式)では記載を欠いている[8]。上記古墳を箸墓に比定する伝承は幕末まであり、慶応元年(1865年)4月には営築とともに長役・守戸の付置があった。また明治8年(1875年)に墓域が国有地として買収され、明治19年(1886年)に拝所・参道用地も買収、明治21年(1888年)に修営された[8]。
この箸墓古墳は、全国の古墳で最古級の3世紀中頃の築造とすれば、邪馬台国畿内説の立場から、『魏志』倭人伝に見える「径百余歩」という卑弥呼の冢に比定できるとする説があるものの、巨大な前方後円墳を4世紀のものとみなす意見も多い(詳細は「箸墓古墳」を参照)。しかし『日本書紀』・『古事記』およびその原史料の『帝紀』・『旧辞』の編纂段階では、すでにヤマト王権の初期王陵とする伝承が失われ、新たな意味付けがなされている点が注目されている[9]。その中で、王族の墓は大宝令以後に「陵」から「墓」と称されるようになった点、箸は7世紀以降から支配層で一般的に使用されるようになった点、および『播磨国風土記』揖保郡立野条において箸墓伝承と同様の説話が見える点などから、元々は土師氏の伝承であったのが新たに三輪山伝承に付加されたとする説があり、加えて「はしはか」の墓名も「土師墓(はじはか)」に由来すると指摘される[9]。
- ^ 「神浅茅原」の比定地として、奈良県桜井市笠の浅茅原または桜井市茅原とする説があるが明らかでない (倭迹迹日百襲姫命(古代氏族) & 2010年)。
- ^ 「倭迹速神浅茅原目妙姫」の名は、神浅茅原で神憑ったことによる讃称とされる (倭迹迹日百襲姫命(古代氏族) & 2010年)。
- ^ a b c d e f g h i j k l 倭迹迹日百襲姫命(古代氏族) & 2010年.
- ^ a b 倭迹迹日百襲姫命(古代史) & 2006年.
- ^ a b c 倭迹迹日百襲姫命(国史).
- ^ a b 倭迹速神浅茅原目妙姫(古代氏族) & 2010年.
- ^ 『萬葉集註釈 一』所収『土佐国風土記』逸文「三輪川(神河)」の引用文(武田祐吉編『風土記』(岩波書店、1937年、国立国会図書館デジタルコレクション)167-168コマ参照)。なお、逸文中の「多氏古事記曰はく」以下は風土記の文章でない可能性が指摘される。
- ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。
- ^ 『宮内庁書陵部陵墓地形図集成』 学生社、1999年、巻末の「歴代順陵墓等一覧」表。
- ^ a b c 大市墓(国史).
- ^ a b 仁藤敦史 「記紀から読み解く、巨大前方後円墳の編年と問題点」『古代史研究の最前線 天皇陵』 洋泉社、2016年、pp. 18-20。
- ^ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023年6月14日閲覧。
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