久保田藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/29 00:30 UTC 版)
城地
入封当初は、秋田氏の居城であった土崎湊城に入り、初代義宣の父義重を六郷城(秋田県美郷町六郷)に配するなど、横手・大館・能代・十二所及び角館などの要所にそれぞれに佐竹一族や有力家臣を配置した。これは反佐竹一揆が各地で勃発していたからである。
その後、佐竹義宣は秋田郡保戸野に新城を築城し本拠とした。この地は北東と東を山で遮り、旭川を掘り換えて西側外堀とした。羽州街道を西に配したことから四神相応の地に近しいものとした。本丸を含む城域は現在の千秋地区がそれに相応する。
久保田城下町は外町(とまち)と呼ばれる町人町が現在の大町・旭北及び旭南の地域に配された。しかし侍町及び足軽町は城下周辺の中通・南通・楢山・保戸野・手形・川口に配置され、その範囲は町人町より広い。久保田城下が侍の町である証左であろう。1885年(明治18年)に行われた人口調査によると、当時の秋田町(久保田町から改称)の総人口30,254人のうち士族は13,444人(44.4%)で、秋田県全体の総人口642,930人のうち士族は34,947人(5.4%)であった事と比べて明らかに士族が集中している事が判る[16]。これは一般士族が生活に困窮し城下町から離散し始めた時期の調査であるため、廃藩置県時点での士族人口比は更に高く半々程度であったと考えられている[16]。
その後、幕府より一国一城令が発せられ多くの城は取り潰されるが、久保田藩は久保田の本城以外に、横手と大館の2城の存続を許される。これらは久保田藩の地方統制の一環に貢献した。この城や館に配された重臣は所預(ところあずかり)と呼ばれ、彼らも各自の家臣団を率いていたため、城地は小城下町として栄えた。
なお、佐竹一族には本家の他に有力な4家があり、常陸時代の拠点の位置に由来してそれぞれ東家、西家、南家、北家と呼ばれる。西家(小場氏、後に佐竹姓を許される)は大館、南家は湯沢、北家は角館に配され、東家は4家の筆頭として久保田城下に常住した。このように久保田藩では近世に入っても地方知行制が強く行われており、藩政中期以降は藩主の権限強化の動きに対し内紛の元となることもあった。なお、佐竹4家に藩主の相続権はなかったが、支藩の養子を経て藩主を相続したケースはある。4家の子孫としては、東洋製作所元社長佐竹義利が東家第18代当主、秋田県知事佐竹敬久が北家21代当主である。
本城
持ち城
館
- 角館(城):秋田県仙北市角館(所預:佐竹北家)
- 湯沢(城):秋田県湯沢市古館山(所預:佐竹南家)
- 檜山(城):秋田県能代市檜山(所預:多賀谷氏)
- 十二所(城):秋田県大館市十二所(所預:茂木氏)
- 院内(城):秋田県湯沢市上院内(所預:大山氏)
- ^ a b 「秋田市史 第四巻」7頁。
- ^ a b c るもい風土資産カード 北海道開発局留萌開発建設部、2021年10月6日閲覧。
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『秋田藩』 - コトバンク
- ^ a b c 『「梅津政景日記」読本』p.35。
- ^ a b 『「梅津政景日記」読本』p.38。
- ^ 『「梅津政景日記」読本』pp.38-43。
- ^ 『「梅津政景日記」読本』p.47。
- ^ 『「梅津政景日記」読本』p.54。
- ^ 『「梅津政景日記」読本』pp.54-56。
- ^ 『「梅津政景日記」読本』p.317。
- ^ a b c 『「梅津政景日記」読本』p.318。
- ^ 『「梅津政景日記」読本』pp.318-323。
- ^ あきた(通巻69号) 1968年(昭和43年)2月1日発行 p.38
- ^ 林正崇「角館城下町の歴史」ISBN 978-4-89544-633-4、無明舎出版、1982年12月、p.171。
- ^ 鬼頭宏『文明としての江戸システム』(2002)p.182
- ^ a b 「秋田市史 第四巻」20頁。
- ^ 『梅津忠昭日記』秋田県公文書館
- ^ 社には「扇に日の丸」の佐竹家の家紋がある。稲荷神社の神使である狐像は無い。
- ^ 「くぼた旧町名物語・まちの生い立ち ④江戸屋敷跡 編 東京に今も残る“佐竹”の名と紋章」『広報あきた』No.1583、秋田市、2004年8月13日、2-3頁、2014年6月14日閲覧。
- ^ “商店街の歴史”. 佐竹商店街振興組合. 2014年6月14日閲覧。
- ^ 一般財団法人千秋文庫(千代田区)が所蔵する「梅田御屋敷絵図」や登録有形文化財「千住花又瀬崎辺之図」に「佐竹大膳(佐竹義格)屋敷」と描かれている。
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