中村敦夫の地球発22時 中村敦夫が途中降板に至るまでの背景

中村敦夫の地球発22時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 09:48 UTC 版)

中村敦夫が途中降板に至るまでの背景

1956年に新卒扱いで大阪テレビ(OTV)へ採用された町田は、採用の当初から番組の制作を志望していたにもかかわらず、東京支社の編成部に配属。テレビネットワークの確立に向けたラジオ東京(後のTBS)や日本テレビとの交渉を担当した後に、朝日放送(ABC)によるOTVの吸収合併(1959年6月1日)に伴ってMBSへ移籍した。さらに、MBSでも東京支社のテレビ編成部長を務めるなど、30年近くにわたってネットワークの編成業務に携わってきた。このような経歴を持つ町田にとって、『22時』はプロデュースを本格的に手掛けた初めての番組に当たる。「『22時』や『23時』では制作する喜びに浸っていた」とのことだが、東京支社内の人事異動でテレビ編成部からテレビ制作部へ移るまでは、TBSが主導する全国ネット向け番組の編成に何度も翻弄されてきた[2]

町田がOTVから移籍した時点でのMBSは毎日新聞社系のラジオ単営局で、テレビ本放送の開始(1958年12月)に向けて準備を進めていた。東京支社の編成局に配属された町田は、ラジオ東京(KR)制作のテレビ番組がスポンサードネット方式でMBSに送出されることを想定しながら、KRの編成関係者と折衝を重ねていた。ところが、MBSがテレビの本放送を開始する直前になって、KRは朝日新聞社と関係の深いABCとの間でステーションネット(局全体の結び付きに基づくネットワーク)を組むことを突如発表。放送対象地域(近畿広域圏)がABCと重なるMBSに対しては、自社制作番組の送出を全面的に見送ることを通告したため、MBSは朝日新聞社の出資を受けていた日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)とネットワークを組むことを余儀なくされる。このような状況は「腸捻転」に例えられていて、10年以上にわたって続いた末に、ABCとのネットチェンジ(1975年3月31日)によって解消に至った。ちなみに、町田はこの間に上記の局や東京12チャンネル(現在のテレビ東京)との折衝に奔走。東京支社のテレビ編成部長時代にネットチェンジへ漕ぎ着けたものの、TBSの編成部とは事あるごとに対立していて、カッカしやすい(怒りやすい)性格だったことから「町田閣下(かっか)」と呼ばれるほどだったという[2]

MBS本社の編成局では、『23時』の放送枠を水曜日の19時台へ移すことについて、「子ども向け番組の多い19時台を『大人の時間帯』として開拓したい」と説明していた[6]。もっとも、中村はTBS側の事情で放送時間を再び変更させられることに激怒。1988年3月4日には、想いを同じくしていた町田と揃ってMBSの番組改編発表記者会見に臨むと、以下の発言(いわゆる「電波芸者発言」)でTBS側の姿勢を糺した[2][5]

「TBSは何を考えているのか。『(JNNニュース22)プライムタイム』を始めるために『22時』と『23時』に変えたかと思いきや、今度は2時間ドラマ(『土曜ドラマスペシャル』)を立ち上げるために『19時』へ移すなんて・・・『プライムタイム』の数字(視聴率)はどうなっているんですか[5]
僕らみたいなタレントは電波芸者(のようなもの)だから、どこのお座敷(時間帯)でも(『踊れ』と言われたら、自分の意に沿っていなくても)踊りますよ。ただ、今度(『23時』から『19時』へ)の移行は、『花柳流(の踊り手)にゴーゴーダンスを踊れ』と言っているようなもの(で、筋違いにも程がある)。(『22時』や『23時』のような)大人(向け)の情報番組を、子ども(向け番組だらけ)の時間帯でやるなんて、TBSのトップ(上層部)がアホなのか。それとも、(編成の実務を担っている)中間(管理職)がアホなのか[7]

中村によれば、上記の発言は制作局のMBSに向けたものではなく、「視聴者を蔑ろにするかのように、番組の放送時間を何度も変更するTBSへ問題を提起するつもりだった」という[7]。現に、中村の所属事務所も、『19時』への移行後もキャスターを続行することを前提に中村のスケジュールを組んでいた[6]。しかし、この発言を報じる記事が会見での町田とのツーショット写真と合わせて翌日(1988年3月5日)のスポーツ紙に大きく掲載される[2]ほど波紋を呼んだことから、MBSでも中村の発言とプロデューサーとしての町田の姿勢を問題視。会見から5日後(3月9日)には、当番組向けの取材で静岡県浜松市に滞在していた中村に対して、同月限りでキャスターから降板することを制作局長が要請した。MBSはこの要請を後に「あくまでも弊社での判断に過ぎず、TBSとは無関係」と説明していたが、中村は要請を受け入れる一方で、TBSへの批判を週刊誌などでも展開[7]。降板の1年半後(1989年10月)から『中村敦夫のザ・サンデー』(日本テレビ制作の全国ネット番組)のキャスターを3年間[8]1998年9月から参議院議員を1期(6年間)務めた。

中村が記者会見で引き合いに出していた『プライムタイム』は、開始の当初から裏番組の『ニュースステーション』(テレビ朝日が1985年10月からのANN全国ネット向けに制作していた平日最終版のニュース)に視聴率で大きく水を開けられ続けたあげく、わずか1年で終了した[5]。一方の町田は、MBS局内の査問会議へ付された末に、「タレント行政不行き届き」との理由で『23時』の終了を機にプロデューサーを離脱。離脱直後(1988年)の人事異動で日中ビデオ(MBSの傍系会社)へ出向したものの、同局からの依願退職(1991年)を経て、1992年から2004年までインターボイスの代表取締役社長を務めた[2]


  1. ^ 企業と広告』第11巻第1号、チャネル、1985年1月1日、31頁、NDLJP:2853022/18 
  2. ^ a b c d e f g h 町田が寄稿した回顧録「ネットワークはつらいよ、在阪局のネット騒動記」(『月刊民放クラブ』2021年10月号「私の放送人生」)
  3. ^ 企業と広告』第13巻第10号、チャネル、1987年10月1日、13頁、NDLJP:2853055/9 
  4. ^ ギャラクシー賞第24回(1986年度)受賞作放送批評懇談会公式サイト
  5. ^ a b c d テレビ局を批判してキャスターを降ろされた中村敦夫”. 日刊ゲンダイ. p. 1 (2013年12月13日). 2023年2月26日閲覧。
  6. ^ a b 週刊TVガイド 1988年3月25日号 p.166「REPORT・毎日放送『地球発―』の中村敦夫が3月降板」
  7. ^ a b c テレビ局を批判してキャスターを降ろされた中村敦夫”. 日刊ゲンダイ. p. 2 (2013年12月13日). 2023年2月26日閲覧。
  8. ^ テレビ局を批判してキャスターを降ろされた中村敦夫”. 日刊ゲンダイ. p. 3 (2013年12月13日). 2023年2月26日閲覧。


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