一言坂の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/23 09:58 UTC 版)
合戦の経緯
背景
元亀3年(1572年)、武田信玄は信長包囲網に応える形で西上作戦を発動する。信玄は軍を3つに分け、山県昌景率いる5,000の兵を三河へ、秋山虎繁(信友)率いる伊那衆を美濃へと先行させる。そして10月10日には、自ら率いる本隊3万(北条氏政からの援軍も含む)を信濃の青崩峠から徳川領の遠江へと侵攻させた。
本隊の侵攻が始まると、北遠江の国人だった天野景貫は即座に信玄に寝返り、居城・犬居城を明け渡して侵攻の先導役を務める。犬居城で信玄は馬場信春に5,000の兵を預けて西の只来城に向かわせ、そのまま南進して要所・二俣城へ向かった。一方、山県昌景隊は、すでに降伏していた奥三河の山家三方衆を加えて、遠江へ転進し信玄本隊との合流を図っていた。
二俣城は、徳川氏の本城・浜松城だけでなく、その支城・掛川城、高天神城にも繋がる要所で、徳川氏にとって遠江支配の要であった。しかし、徳川氏は三河への対処などもあって、防衛には8,000人余しか動員できず、さらに織田氏からの援軍も望めない状況にあった。それでも天竜川を渡らせたくない家康は、本多忠勝・内藤信成を偵察に先行させ、自身も3,000の軍勢を率いて出陣し、天竜川を渡河した。
しかし、この時、武田軍は家康の予想よりも早く進軍していた。
一言坂の戦い
先行していた本多・内藤率いる偵察隊は武田の先発隊と遭遇した。偵察隊はすぐに退却するも、武田軍は素早い動きで徳川軍を追撃し始め、太田川の支流の三箇野川や一言坂(静岡県磐田市一言)で戦いが始まった。
徳川軍の望まぬ形で開戦してしまい、また兵の多寡もあったため、家康は撤退を決めた。内藤信成と本多忠勝は徳川本隊の殿(しんがり)を務め、一言坂の下という不利な地形に陣取った。急戦で陣形もままならぬ本多忠勝隊に、武田軍先鋒の馬場信春隊が突撃し、3段構えの陣形のうちの第2段までを打ち破った。また、信玄の近習である小杉左近は、本多隊の退路を阻むために、本多隊の後方(一言坂のさらに下)に先回りし、鉄砲を撃ちかけた。
これに対し、本多忠勝は、大滝流れの陣をとり、坂の下で待ち受ける小杉隊に敵中突破し逃走を図る。これは無謀な突撃であり、本多隊はいわゆる死兵となる予定であったが、左近はこれを迎え撃たず、道を空けるように指示して本多忠勝隊を見逃す。このとき、忠勝は小杉に名を尋ね、感謝の言葉を述べたと言われる。
合戦後
徳川軍は無事に浜松城まで撤退できたものの、武田軍にそのまま二俣城を包囲されてしまう。家康はこれといった対処を取ることができず、12月19日に二俣城は陥落した(二俣城の戦い)。これによって家康の遠江支配は揺らいだ。
二俣城陥落と前後して、家康は織田氏の増援を受けており、陥落後、武田の次の狙いは浜松城とみて篭城戦を決め込むも誘い出され、三方ヶ原で敗退した(三方ヶ原の戦い)。家康から味方を浜松城へ引き取る間、誰か残り防戦を遂ぐべき者はないかとの旨があったが、皆悉く疲れて誰も引き受けるものがいない。その時信成が進み出でて「某相残るべし」と申し上げ、信成は苦戦奮闘大いに努め敵を倒すこと数知れず、味方もまた倒れる者も多かったが、遂には信玄は夜明けた後に軍勢を納めたという[1]。こうして内藤信成・本多忠勝の働きによって徳川家康率いる本隊は見事、撤退戦を完了させた。
なお、講談師が最初に習う「三方ヶ原軍記」には、信成が敵陣を探る「内藤の物見」という段が存在する。
固有名詞の分類
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