ユグノー戦争
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内戦の勃発(1562年 - 1570年)
第1次戦争(1562年 - 1563年)
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ヴァシーの虐殺は2つの宗派間の抗争を引き起こすことになった。ブルボン家のコンデ公ルイは「悪」の大臣たちから王と摂政を解放すると宣言し、プロテスタント教会を組織化してロワール川沿いの町々を占拠し、軍隊を駐留させた。実際にはユグノーたちはヴァシー事件以前から動員を開始していたが[14]、コンデ公ルイは虐殺を勅命が破られた証拠であるとし、彼の軍事行動の大義名分に用いた。そして、戦闘が起こると実際にこの勅命は、ギーズ家の圧力によって取り消された。ユグノーは イングランド女王エリザベス1世とハンプトン・コート条約を結び、援助の見返りにル・アーヴル、ディエップ、ルーアンを引き渡す約束をする。これに従い、イングランド軍がル・アーヴルに上陸した。
主な戦いはルーアンとドルー、そしてオルレアンで起こっている。ルーアン包囲戦(1562年5月 - 10月)では国王軍が町を奪回したものの、ナバラ王アントワーヌが戦死した。ドルーの戦い(1562年12月)ではコンデ公ルイがギーズ家の捕虜になったが、ブルボン家も敵の司令官アンヌ・ド・モンモランシーを捕らえている。1563年2月のオルレアン包囲戦において、ギーズ公フランソワがユグノーのポルトロ・ド・メレに銃撃され、その傷が元で死亡した。ギーズ家は暗殺は敵対者のコリニー提督の差し金であると信じた。暗殺によって引き起こされた暴動とオルレアンが陥落しなかったため、カトリーヌが和平調停を行い、アンボワーズ勅令が発せられた。
武装した平和(1563年 - 1567年)と第2次戦争(1567年 - 1568年)
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アンボワーズ勅令は全ての関係者にとって不満足なものであり、とりわけギーズ一派は異端との危険な妥協であると見なして反対した。それにもかかわらず、王家は両派の和合はイングランドに占領されているル・アーヴルの奪回のために必要であると考えていた。7月にイングランドを追い出すことに成功し、翌月シャルル9世は成人を宣言、カトリーヌ・ド・メディシスの摂政は終わった。しかしカトリーヌはなおも政治を主導し続け、1564年から1566年にかけて彼女は息子の国内巡幸に同行して国王の権威の再興を図っている。巡幸の最中の1565年2月、カトリーヌはスペイン王首席顧問アルバ公とバイヨンヌで会談を持った。会談の内容は不明だが(スペインがプロテスタント礼拝禁止を迫ったともされる[15])、熱烈なカトリックであるスペイン王フェリペ2世の使者との会談はユグノーたちに警戒される[16]。
フランドルでの聖像破壊の報告を受けたシャルル9世が、この地のカトリックへの支援を行ったことが、ユグノーたちに危機感を起こさせた。スペイン軍がフランドルでのプロテスタントの反乱を鎮圧するためフランス領を通過し、その警戒のために国王が軍備を増強させたこともまた、ユグノーを恐れさせ、政治的不満が増大した。1567年9月にプロテスタント軍はシャルル9世を誘拐して自陣営に取り込もうと謀ったが失敗(モーの奇襲)、続いてラ・ロシェルなどのいくつもの都市がユグノー側に就くことを宣言した。ニームではカトリックは聖職者も平民も虐殺され、この事件はミチェラード(Michelade)と呼ばれている。
この事件が第2次戦争を引き起こした。主な戦闘はサン=ドニの戦い(1567年11月10日)で、国王軍が勝利したものの司令官アンヌ・ド・モンモランシーが戦死している。その後、ユグノーはオルレアンとブロワを攻略してパリに迫る。1568年3月にロンジュモーの和議が結ばれ、プロテスタントに対して信仰の自由と権利が与えられた。
第3次戦争(1568年 - 1570年)
1568年夏、この和平に反抗するようにカトリックが各地でユグノーの迫害を始め、ユグノーもこれに報復してカトリックを虐殺した[17]。王太后カトリーヌ・ド・メディシスは協調派の大法官ミシェル・ド・ロピタルを罷免し、政情はカトリック優勢へ傾いた[18]。身の危険を感じたコンデ公ルイとコリニー提督らユグノー指導者たちは宮廷を脱出したが、彼らの部下の多くが殺害された。9月、サン・モール勅令が出され、ユグノーの礼拝の自由は再び禁じられてしまった。11月、ネーデルラント反乱軍の指導者オラニエ公ウィレムがプロテスタントを支援するために軍を率いてフランスへ侵攻する。だが、彼の軍隊は給与を十分に支払われておらず、このため国王が資金と通行の安全を申し出ると撤退してしまった。
それにもかかわらず、ユグノーはコンデ公ルイを司令官とし、フランス南西部の軍勢とドイツからのプロテスタント民兵(プファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヴォルフガング率いる1万4千の傭兵部隊を含む[19])の助けを受けて強力な軍隊を編成した。傭兵部隊はコンデ公ルイの戦死後もユグノーに雇用され続けており、このためにユグノーはナバラ女王ジャンヌ・ダルブレの王冠の宝石を担保にイングランドから借金をしている[20]。ユグノーの軍資金の多くはイングランド女王エリザベス1世から提供されたもので、これは彼女の腹心フランシス・ウォルシンガムの影響力によるものと考えられている[19]。カトリック軍は王弟アンジュー公アンリが司令官となり、スペイン、教皇領、トスカーナ大公国の援軍を得ていた[21]。
ユグノー軍はラ・ロシェル防衛のためにポワトゥーとサントンジュ地方の幾つかの都市を包囲し、それからアングレームとコニャックを攻めた。1569年3月16日のジャルナックの戦いでユグノーの司令官コンデ公ルイが戦死し、狂喜したアンジュー公アンリはコンデ公の死体をロバにつないで引きずり回している[22]。
ユグノーはコンデ公の15歳の息子アンリを名目上の司令官としてコリニー提督が指揮を執ることになり、また国王の権威に対抗するためにナバラ女王ジャンヌ・ダルブレの16歳の息子アンリ・ド・ベアルンを指導者とした。
ユグノーはラロシュ=ラベイユの戦い(1569年6月25日)に勝利したもののポワチエを奪取することはできず、モンコントゥールの戦い(1569年10月30日)で国王軍に大敗を喫してしまう。コリニーと彼の軍隊は南西部へ後退してモンゴムリ伯ガブリエル・ド・ロルジュと合流し再編を行い、1570年春にトゥールーズを掠奪して南部への連絡路を切断、そしてローヌ渓谷を進軍し、パリから200kmのラ・シャリテ・シュルラ・ロワールに達した[23] 。戦争によって王家の負債は激増しており、シャルル9世が平和的解決を望んだため[24]、1570年8月8日にサン・ジェルマン和議が結ばれ、再びユグノーに対する譲歩がなされた。
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- ^ Salmon, pp.124–5; the cultural context is explored by N.M. Sutherland, "Calvinism and the conspiracy of Amboise", History 47 (1962:111–38).
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- ^ see his speech to the Estates General at Orleans of 1560
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- ^ 「聖なる王権ブルボン家」 p39-40
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- ^ Philip Benedict, ‘Un roi, une loi, deux fois: Parameters for the History of Catholic-Protestant Co-existence in France, 1555-1685’, in O. Grell & B. Scribner (eds), Tolerance and Intolerance in the European Reformation (1996), pp. 65-93
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