ヤングブラッズ (1960年代のバンド) ヤングブラッズ (1960年代のバンド)の概要

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ヤングブラッズ (1960年代のバンド)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/14 13:41 UTC 版)

ヤングブラッズ
出身地
ニューヨーク州 ニューヨーク
ジャンル フォークロック
ロックンロール
ブルースロック
ジャズロック
リズム・アンド・ブルース
ブルーグラス
カントリーロック
活動期間 1965年 - 1972年
レーベル RCA
メンバー ジェシ・コリン・ヤング
ジェリー・コービット
バナナ(ロウエル・レヴェンジャー)
ジョー・バウアー
1969年初頭頃のヤングブラッズ

ディノ・ヴァレンティ(英語版)の楽曲「ゲット・トゥゲザー」を取り上げ、1969年にビルボードのシングル盤チャート最高5位を記録するヒット曲にした。


メンバー

  • ジェシ・コリン・ヤング(ペリー・ミラー)(Jesse Colin Young/本名Perry Miller [2] 1941年10月22日生、ニューヨーク州クイーンズ区出身) ボーカル、ベース・ギター、ギター
  • ジェリー・コービット(Jerry Corbitt/本名Jerry Byron Corbitt[3] 1943年1月7日ー2014年8月3日、ジョージア州ティフト出身) ボーカル、リード・ギター ※1965-69年在籍
  • バナナ(ロウエル・レヴェンジャー3世)(Banana/本名Lowell LevingerⅢ [4] 1946年生、マサチューセッツ州ケンブリッジ出身) キーボード、ギター
  • ジョー・バウアー (Joe Bauer [5] 1941年9月26日-1983年11月日、テネシー州メンフィス出身) ドラムス
  • マイケル・ケイン (Michael Kane) ベース・ギター ※1971-72年在籍
  • デヴィッド・パーパー (David Perper) ドラムス ※1984-85年在籍
  • スコット・ロ-レンス (Scott Lawrence) キーボード ※1984-85年在籍

来歴

ジェシ・コリン・ヤングJesse Colin Young、本名Perry Miller)はニューヨーク州の出身で、会計士の父親とヴァイオリニストの母親を持ち、幼少からクラシック音楽に親しんだ。彼は遊学からボストンのフィリップス・アカデミーに進学したが、フォークリバイバル運動の「洗礼」を受けて熱心な音楽活動を始め、学校を中途退学してニューヨークに戻り、フォーク・クラブやコーヒーハウスで活動した。

1964年4月、ヤングはキャピトル・レコードからボビー・スコット(Bobby Scott)のプロデュースによるデビュー・アルバム『ザ・ソウル・オブ・ア・シティ・ボーイ(The Soul of a City Boy)』[1]を発表した。当時のグリニッジ・ヴィレッジでは、雑多な交流から生まれたセッションや即席のフォーク・グループがステージに立ち、デヴィッド・グリスマンDavid Grisman・英語版)が結成したブルーグラスジャグ・バンドには様々なミュージシャンが参加して演奏を繰り広げていた[注釈 1]。ヤングはデビューの前後に、ジェリー・コービット(Jerry Corbitt、本名Jerry Byron Corbitt)と知り合った。意気投合した二人はカナダのフォーク・クラブなどを回る遠征を行ない、この旅行中にバンドの結成を思い立った。

ヤングは帰国後、2作目のアルバムの制作の為にマーキュリー・レコードMercury Records・英語版)と契約した。彼が結んだ契約の付帯項目では、アルバムの制作とは別枠でスタジオをバンドセッションのリハーサルとデモ・テープ制作に使う時間枠が確保され、ジェリー・ロス(Jerry Ross)が全ての作品のプロデューサーに指名されていた。デモ・テープのセッションには、のちにラヴィン・スプーンフルを結成したジョン・セバスチャンがハーモニカでゲスト参加した。また4人前後のメンバー候補の中から、コービットのジャグ・バンド仲間で、ボストンのセミ・プロバンド[注釈 2]を辞め将来の模索にニューヨークへ移住してジャズ・バンドに臨時に雇われていたバナナ(Banana、本名Lowell Levinger III)と、その友人で社交ダンスホール専属の無名のジャズ・バンドにいたジョー・バウアー(Joe Bauer)という、それぞれ細々と糊口を凌いでいた2人が選ばれた[注釈 3]。メンバーが揃ったヤングブラッズは、グリニッジ・ヴィレッジに1964年2月に開店したクラブのカフェ・ア・ゴー・ゴー(Cafe au Go Go)に出演して評判を集めて、やがて専属契約を勝ち取った。

1965年3月、ヤングはマーキュリー・レコードからスコットのプロデュースで2作目のソロ・アルバム『ヤング・ブラッド(Young Blood)』[2]を発表した。マーキュリー・レコードからは、次作の制作を要請されたが、ヤングらは態度を保留した。マーキュリーとの再度の交渉の大きな争点は、会社が斡旋する名前だけの無能なプロデューサー・チームとその経費や印税割を排除し、不慣れなバンド体制による録音時間を少しでも長く確保したいというものだった。ヤングブラッズのデモ・テープから制作された2枚のシングルはプロモーション・サンプルに終わり、発売までに至らなかった。

ヤングブラッズとマーキュリーとの交渉が膠着したので、彼等は自分達の希望を受け入れたRCAビクターと契約を結んだ。この契約は実績のない新人バンドとしては異例なもので、破格なスタジオ使用条件とプロデューサー任命権が含まれていた。彼等はこの権利に基づいて、グリニッジ・ヴィレッジの親しい音楽仲間友人で恣意にしていたビジネスマンのフェリックス・パパラルディをチーフ・プロデューサーとして招聘して契約を結んだ。パパラルディはニューヨーク出身でミシガン大学でクラシック音楽を修め、若手ながら高い評価と実績を持ち、アメリカではジョン・サイモンらと並んで計算立てのアレンジが出来る先進者だった[注釈 4]。彼は契約書類に目を通して、RCAが新人バンドにプロデューサーの人事権などを授けるという画期的な内容を知って驚愕すると同時に歓喜し、ヤングらの交渉手腕に舌を巻いたと云う[注釈 5]

RCAとの契約の中での異例の条項の一つだったスタジオ使用条件とは、要約すると、ヤングブラッズに作品制作の締切り期限まで会社が使用しない空き時間に限ってスタジオを自由に使用できるという占有権を与え、録音経費に含まれる時間制貸切のスタジオ使用料金にはあらかじめ上限額が設定され、RCAは貸切時間超過の使用料についてはヤングブラッズに追加の精算を求めない、というものだった。彼等はこの条項を盾に深夜早朝に施錠を無理強いして解いてスタジオを自由に使い、スタジオ使用明細書の束と共に、アルバム『ザ・ヤングブラッズ(The Youngbloods)』と『アース・ミュージックEarth Music・英語版)』をパパラルディのプロデュースで完成した[注釈 6]。因みにヤングブラッズとの交渉を拗らせ契約を逸したマーキュリーに残された音源は、Jesse Colin Young With The Youngbloods名義の編集アルバム『トゥ・トリップス(Two Trips )』(1970年[3]に収録された。

1966年11月、ヤングブラッズはシングル「グリズリー・ベア(Grizzly Bear)/ティアーズ・アー・フォーリン(Tears Are Falling)」[4]でデビューした。1967年1月に発表されたデビュー・アルバム『ザ・ヤングブラッズ』は、ボブ・ディラン、ビートルズやバーズなど影響にを受けたサイケデリック・ロック風のリード・ギター、他のバンドがこぞって取り上げたブルースロック調で最先端のロックミュージックが中心だった。6月にシングル・カットされた「ゲット・トゥゲザーGet Together)」はディノ・バレンティ(Dino Valenti/Chet Powers・英語版)が書き下ろした楽曲で、1964年6月にキングストン・トリオによって発表されて以来、フォーク/フォークロックの数多くのグループやミュージシャンに取り上げられていた。ヤングブラッズのヴァージョンは全米ホットチャートのマイナー部門シングル盤ランキング最高62位と健闘した。また《ビルボード》イージー・リスニング・チャートで37位を記録した[5]。しかしアルバムのセールスは振るわなかった。

同年5月に発表されたセカンド・アルバム『アース・ミュージック』では、メンバーがステージで演奏していたフォーク・ロック、リズム・アンド・ブルースなどの幾つかのアレンジを自分達で手がけた。一方、パパラルディが担当した楽曲は、同時期にジェファーソン・エアプレインがRCAから発表したアルバムやシングル盤[注釈 7]とは異にした、時代に左右されない普遍的なものとし一過的な流行のアレンジが無い仕上がりとなった[注釈 8][注釈 9]。パパラルディはニューヨークの出身で、ビート・ジェネレーションの余波を受けた地元のフォーク・ミュージシャンとの関係が深く、ティム・ローズ(Tim Rose・英語版[注釈 10][6]リッチー・ヘブンス[注釈 11][7]らの作品にベース・ギターの演奏やアレンジで関わっていた。かくして、ヤングブラッズの特徴を注いだ同アルバムはニューヨークのローカル・カラーが濃い作品に仕上がり[注釈 12]、全国的なヒット・チューンの流行傾向との乖離は否めず、全米トップ200チャートの圏外に停滞し、地元と音楽マニアの支持を得るに留まった。

2作のアルバムの販売不振はメンバー間の軋轢や主導権争いを引き起こした。サード・アルバムの録音はRCAに催促されたにも拘らず足踏み状態に陥り、「クイックサンド(Quicksand)」など数曲だけが完成した段階で中断した[注釈 13][8]。1968年末、コービットはソロ活動への転向を理由に脱退した。残されたメンバーは3人編成で演奏活動を続行することに決め、マルチ・インストルメンタリストのバナナがオルガン、ギター、ベース、マンドリンなどを演奏し、ベース担当のヤングがギターパートを受け持ち、楽曲のアレンジを大幅に変更するといった対処によってコービットが抜けて生じた穴を埋めた。RCAは解散の懸念を解消する為に、ハリウッドにある自社のスタジオでアルバムの録音を再開することを提案。彼等は承諾してマリン郡などに滞在して、チャーリー・ダニエルズをプロデューサーに迎えて録音を再開。1969年4月、サード・アルバム『エレファント・マウンテン』を発表した[注釈 14]。同アルバムはビルボードチャートで最高118位止まりだったが、評論家からは高い評価を受け、多くの音楽マニアにも受け入れられてロングセラーになり、シングル・カット曲「闇(Darkness, Darkness)」は複数のミュージシャンに取り上げられた。

1969年6月、ニューヨークのラジオ放送局WABC-AMでユダヤ・キリスト教系公益法人のNCCJ(英語版)とICCJ(英語版)のCMに起用されていた「ゲット・トゥゲザー」が再発売され、9月6日から2週連続で《ビルボード》Hot 100の5位を記録[9][10]。年間チャートでは16位でゴールド・ディスクに輝いた。一方、彼等がグリニッジ・ヴィレッジで根城にしていたカフェ・ア・ゴー・ゴーは10月に閉店することが決まった。RCAとの契約はアルバムを3作制作すると満了するので、彼等は『エレファント・マウンテン』の録音を再開する前に既に幾つかのレコード会社と接触して契約交渉を進めていた。1967年に西海岸で演奏旅行を行い、9月以降はニューヨークとカリフォルニア州を往復して交渉を続け[11]、カリフォルニア州に本社があるワーナー・ブラザース・レコードから再レコード契約の作品裁量権と不干渉範囲、経費負担、責任債務割合など[注釈 15]を提示された。彼等はこの好条件をほぼそのまま受け入れて、契約内容に基づいてワーナー・ブラザース傘下で自主レーベルのラクーン(Raccoon)を開設し、東海岸と西海岸の間を往復する生活に区切りを付けた[12]

彼等はサンフランシスコを中心に国内各地やカナダで公演を続け、この模様と音源で1970年10月『ロック・フェスティヴァル (Rock Festival)』を発表した。プロデューサーにゼーガーとエバンズ(Zager and Evans)[注釈 16]を迎えた同アルバムは、ビルボード・チャートで最高80位を記録。ダニエルズのプロデュースによって翌1971年7月に発表された『ライド・ザ・ウィンドRide the Wind・イタリア語版)』は新曲を含むライヴ・アルバムで、同チャート最高157位。同年11月発表の『グッド・アンド・ダスティ(Good And Dusty・イタリア語版)』は最高160位。同アルバムでは収録する楽曲を巡る各自の配分に対立が生じた。以後、ヤングはバンドの出演や演奏参加の一部に条件を立てて拒絶し、バウアーが71年にラクーンから発表したソロ作品[13]の制作には一切関与しなかった。バナナとバウアーは補助メンバーにマイケル・ケイン(Michael Kane)を雇った。1972年、ヤングはコービットなどのミュージシャンを招聘して、バナナとバウアーの手を借りずソロ・アルバム『トゥギャザー(Together)』[注釈 17]を完成させた。そして同年春、ヤングブラッズの次作の録音を前に脱退を表明。ここでヤングブラッズの解散が決定した。有名無実と化した彼等はケインを補助メンバーから正式メンバーに昇格させて最終作を制作。ヤング作の一曲を除いてカバー曲が占めヤングとスタジオ・ミュージシャンを務めるバナナ、バウアーとケインで収録。その後、既に9月まで決まっていたコンサートの日程を消化して解散した。11月に最終作『ハイ・オン・ザ・リッジ・トップ (High on a Ridge Top・イタリア語版)』が発表された[注釈 18]

その後

1982年9月、バウアーが脳腫瘍で死去。40歳没。当時日本では誤って麻薬中毒死と報道された。

1984年、ヤング、コービット、バナナ、デヴィッド・パーパー(David Perper・英語版)、スコット・ロ-レンス(Scott Lawrence)によって再結成。同年から翌年にかけて全米ツアーが行われた。

2014年3月8日、コービットが肺癌で死去。71歳没。


注釈

  1. ^ ジョー・ボイドのインタヴュー[1]。このセッションはイーヴン・ダズン・ジャグ・バンド(Even Dozen Jug Band)に発展してアルバム制作に至ったが、ヤングとコービットは参加していない。
  2. ^ The Proper BostonersとThe Trolls。
  3. ^ ヤングとコービットは1965年初頭にボストンのコーヒー・ハウスでバナナと面識を持った、とする資料もある。
  4. ^ 1967年には、メンバーの名声からイギリスで前評判が高く期待されたクリームのセカンド・アルバム『カラフル・クリーム』のプロデューサーに起用された。
  5. ^ パパラルディは70年代初頭の雑誌インタヴューで「(フォークが中心の)エレクトラ・レコードのスタジオの時間制限は緩かった。大手レーベルのスタジオは(高額な時間貸しから)時間に厳しくスタジオ・ミュージシャンの技量を磨いた。ヤングブラッズの収録で最新機器を備えるRCAのスタジオの使い放題は、音楽仲間の話題をさらい羨望の眼差しでみられた」(略記大意)と語っている。
  6. ^ パパラルディは1968年に後日談で「制作経費は内輪話から非公式に約$28,000~29,000だったと聞いた。信じられない金額だった」と述べている。
  7. ^ ロサンゼルスを中心に活躍した音響エンジニア兼音楽プロデューサーのデヴィッド・ハッシンジャー(David Hassinger・英語版)は、ジェファーソン・エアプレインのデビュー・アルバム(1966年)をフォーク・ロックの作品に仕上げたが、メンバーの交代に伴って楽曲の色彩が変化したので、セカンド・アルバム『シュールリアリスティック・ピローズ(Surrealistic Pillow・英語版)』(1967年)では実験音楽の一環からサイケデリック・アレンジを施し、彼が同時期に手がけたエレクトリック・プルーンズThe Electric Prunes・英語版)の初期2作とともに「サイケデリック・ロック」の代表作の一つとされる作品に仕立てた。
  8. ^ クラシック音楽の録音手法を用いたホーン、ストリングス・パートやブレーク無音状態から立ち上がりといった、パパラルディが行なったような「丹精な格調ある音質とアレンジ」のCD盤化では、デジタルリミックスの担当者が安易なレベルアップ、ノイズ除去処理を施した変換を行なって、度々批判されている。パパラルディがプロデュースしたクリームの再発CDボックスセット「THOSE WERE THE DAYS」(1997年)は雑誌レコード・コレクターズなどで批判され、デジタルリマスター技術の過渡期の失敗例に挙げられている。2000年代以降、同技術は向上して評価の高い成果を上げる一方、一例で「レット・イット・ビー...ネイキッド」のような錯誤も繰り返されている、
  9. ^ バナナが主導したロックン・ロールのカバーやメンバーがアレンジした'Monkey Business'などとは音質が異なった。
  10. ^ ローズは1963年にグリニッジ・ビレッジでキャス・エリオット、ジム・ヘンドリックスとビッグ・スリー(The Big 3・英語版)を結成。1964年に脱退してソロ活動に移行。1966年にボニー・ドブソン(Bonnie Dobson・英語版)作の「モーニング・デュー(Morning Dew・英語版)」をニューヨークで録音した。ローズが補作詞とアレンジを行ない、デビッド・ルビンソン(David Rubinson・英語版)がプロデュースを担当、パパラルディがベース・ギターで参加した。同曲はイギリスでヒットし、反核・反戦歌として原曲よりも多くの支持を集めた。
  11. ^ ビート詩人でファッグスのトゥリ・カッファーバーグ(Tuli Kupferberg・英語版)の楽曲を取上げている。
  12. ^ リズム・アンド・ブルースの影響という点においては、ニューヨーク出身ブルー・アイド・ソウルヤング・ラスカルズと共通するものがあった。
  13. ^ 1968年1月、「クイックサンド」と既発表曲の「ドリーマーズ・ドリーム(Dreamer's Dream)」を併せたシングル盤が発表された。
  14. ^ 録音作業はパパラルディを交えて開始されたが、彼は自分のバンドであるマウンテンの活動などで多忙を極めていたことから降板した。収録曲'Rain Song (Don't Let the Rain Bring You Down)'はコービット、パパラルディ、パパラルディ夫人のゲイル・コリンズがクレジットされ、録音中断の痕跡が垣間見える。
  15. ^ 一般的には契約金と契約条件。ヤングは三社で不利を被った反省から交渉の事前に条件提示をしていた。
  16. ^ ヒット曲「西暦2525年」が有名な『一発屋』。
  17. ^ 1972年3月25日発売。ビルボードチャート最高157位。
  18. ^ ビルボードチャート最高185位。

出典

  1. ^ Discogs”. 2024年2月2日閲覧。
  2. ^ Discogs”. 2024年2月2日閲覧。
  3. ^ Discogs”. 2024年2月2日閲覧。
  4. ^ Discogs”. 2024年2月2日閲覧。
  5. ^ The Youngbloods, "Get Together" 1967 chart positions Retrieved September 13, 2016.
  6. ^ Discogs”. 2024年2月3日閲覧。
  7. ^ Discogs”. 2024年2月3日閲覧。
  8. ^ Discogs”. 2024年2月3日閲覧。
  9. ^ Music: Top 100 Songs | Billboard Hot 100 Chart | THE WEEK OF SEPTEMBER 6, 1969
  10. ^ Music: Top 100 Songs | Billboard Hot 100 Chart | THE WEEK OF SEPTEMBER 13, 1969
  11. ^ バナナ。SICP_3055ライナーノーツ
  12. ^ SICP_3055アースミュージック、2014年発売CD日本盤ライナーノーツ著者の長門芳郎はここでバナナから取材を行いカリフォルニア州へ活動場所を移した時期について1967年秋としている。本項ではコービット脱退時期とアルバム録音中断期間に言及した文献従来の内容に従った。
  13. ^ Discogs”. 2024年2月3日閲覧。


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