マハーヴィーラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/10 15:00 UTC 版)
生没年について
ジャイナ教団の伝統説によれば、マハーヴィーラは紀元前599年(または紀元前598年)のチャイトラ白月13日に生まれたとしており、その入滅の年を、ジャイナ教白衣派はこれを紀元前57年(もしくは紀元前56年)を起点とするヴィクラマ紀元の470年前、空衣派は西暦78年を起点とするシャカ紀元の605年前としている。つまりは、伝統説によるヴァルダマーナの生没年は紀元前599年-紀元前527年、または紀元前598年-紀元前526年となる。
近代の研究者は、彼がブッダと同じ時代の人物とされることから年代を推定することが多く、そのため仏滅年代と対応して各説が立てられることが多い。
パーリ語文献にもとづく「南伝」の仏滅年代によるヤコービおよびシュブリヒの説では、紀元前549年生まれ、紀元前477年死没[4]であり、漢訳仏典にもとづく「北伝」の仏滅年代を採用する日本の仏教学者中村元によれば紀元前444年生まれ、紀元前372年死没となる[5]。他に、紀元前539年-紀元前467年とする説、バシャムによる紀元前540年-紀元前468年とする説[6]がある。
尊称・異称
本名である「ヴァルダマーナ」は出家以前の名で、原義は「栄える者」である。ヴァルダマーナは、原始仏典では「ニガンタ・ナータプッタ」(nigaṇṭha nātaputta, निगण्ढ नात、漢:尼乾陀若提子)というが、それはナータ族の出身者で、古くからの宗教上の一派ニガンタ派[注 3]で修行したため称されたものである。彼は、従来のバラモンの教えに満足できずニガンタ派の教義からジャイナ教を確立し、以来「マハーヴィーラ」(「偉大な勇者」)の尊称で広く知られた。
ニガンタ派は、ジャイナ教の伝説によればマハーヴィーラ生誕250年前の人と伝承されるパーサ(パールシュヴァ)が開いた宗派とされる。伝説では、マハーヴィーラ以前に23人の祖師「ティッタンカラ」(ティールタンカラ)[注 9]がいたとしており、パーサはその23代目、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ)は24代目とされる。パーサはニガンタ派を率いた歴史上の人物と考えられ、その意味でマハーヴィーラは改革者であり、宣伝者でもあった。彼の改革後も「ニガンタ派」の名は用いられ、漢訳仏典においてジャイナ教徒は「尼乾子」(にげんし)と呼称される。ジャイナ教では、自分たちを過去二十四聖ことに最後の七聖の教えを受けつぐものと称し、これらの聖人を「ジナ」(勝利者、征服者、漢:耆那)と呼んだ。ジャイナ教の名はこれより起こる。
なお、彼の尊称・異称としては、以上述べたほかに「アリハンタ」(敵を倒した者)、「アルハット」(修行完成にふさわしい人)がある。
23人のティッタンカラ
ジャイナ教では、マハーヴィーラに先だって23人の祖師(ティッタンカラ)がいたとされるが、その最初にあたる「第1の師」アーディーシュヴァラは、カイラーサ山で涅槃に達する前、はじめは王子として、次には苦行者として10億年生きたとされ、他のティッタンカラの生涯もそれぞれ概ね同様の伝説を有している。だれもが王子として生まれるが、現世を捨てて宗教的共同体を創っていく。「第23の師」パーサは歴史上の人物であることが認められており、ベナレスの王の子息であったとされるが、30歳で出家し、全能の力を獲得して8つのコミュニティを創りあげた後、100歳で山中に没したと伝承される。今日でもパーサはジャイナ教の神話と信仰のなかで独自の位置にある[1]。
なお、カルナータカ州に所在するジャイナ教の聖地シュラヴァナ・ベルゴーラには「第2の師」ゴーマテーシュヴァラの巨大な丸彫立像があり、ジャイナ教美術史上重要なものとなっている[7]。
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