ペロポネソス戦争 背景

ペロポネソス戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/10 00:27 UTC 版)

背景

紀元前435年コリントス人により建設されたギリシア北西部の植民市ケルキュラ(当時は既にコリントスと離反)を母市とする植民市エピダムノスは打ち続く内紛と周辺民族との抗争のために疲弊し、内部の仲裁と兵隊の援助を母市ケルキュラに求めたがケルキュラ人は何の援助も与えなかった。困窮したエピダムノスはコリントスに救援を要請し、これに応じたコリントスが守備兵と施政官を派遣し植民者の公募を始めると、激昂したケルキュラ人はエピダムノスへ侵攻、エピダムノスを攻囲ののち陥落させ、各地のコリントス植民市に対して略奪を繰り返した。

報復の機会を窺うコリントスの軍備増強を恐れたケルキュラはアテナイに援助を求め、紀元前432年これを遠からず起こるだろう対ペロポネソス同盟戦の戦力増強の好機と見たアテナイが応じて援軍を送り戦闘となった(シュボタの海戦)。翌年、ギリシア北部にあるコリントス人の植民市ポテイダイアがアテナイの武装解除要求を拒否してデロス同盟からの脱退とペロポネソス同盟による保護と加盟を求めた事に関して、アテナイが軍を派遣して包囲、一部のコリントス人が個人的に救援した(ポティダイアの戦い)。これらの事件により、アテナイはコリントスと対立する事になる。

この頃、アテナイはデロス同盟の覇者としてエーゲ海に覇権を確立し、隷属市や軍事力を積極的に拡大していた。これに対し、自治独立を重んじるペロポネソス同盟は、アテナイの好戦的な拡張政策が全ギリシア世界に及ぶ事態を懸念していた。

これらを背景として、勃興する覇権主義勢力と旧来の自治独立のイデオロギー対立がポリス間の権益や帰結闘争と結びついた結果、「デロス同盟対ペロポネソス同盟」という代理戦争的構図が作られ、紀元前432年にペロポネソス同盟会議は、アテナイ軍のペロポネソス同盟市に対する略奪や侵略を和約の破棄と見なし、アテナイとの開戦を決議した。


  1. ^ 明石和康『ヨーロッパがわかる 起源から統合への道のり』岩波書店、2013年、関連年表頁。ISBN 978-4-00-500761-5 
  2. ^ この経緯は、クリティアスの従兄弟でソクラテスの弟子プラトンが四部作『エウテュプローン』、『ソクラテスの弁明』、『クリトン』、『パイドン』に記録し、後世に伝えられている。






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