ベルトルト・ラウファー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/12 06:14 UTC 版)
1933年 | |
人物情報 | |
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生誕 |
1874年10月11日 ドイツ ケルン |
死没 |
1934年9月13日 (59歳) アメリカ合衆国 シカゴ |
出身校 | ベルリン大学 |
学問 | |
研究分野 | 文化人類学・東洋学 |
研究機関 | アメリカ自然史博物館・フィールド自然史博物館 |
学位 | 博士 |
経歴
ラウファーはケルンの中流ユダヤ人家庭に生まれた[1]。1893年にベルリン大学に入学してオットー・フランケに仏教学を、ヴィルヘルム・グルーベに中国語、ゲオルク・フォン・デア・ガーベレンツにマレー語、ゲオルク・フートにチベット語、ルドルフ・ランゲに日本語を学んだ[2]。1895年、地元の新聞に日本の民話の翻訳を連載した[3][4]。同年ライプツィヒ大学に移ってアウグスト・コンラーディらに学び、チベット語文献の批判的分析によって1897年に博士の学位を取得した[5]。
翌1898年、同じドイツユダヤ系のフランツ・ボアズに招かれてアメリカ合衆国に移り、翌年にかけてジェサップ探検隊によるサハリンとアムール川河口一帯のフィールドワークを率い、アイヌ、ニヴフ、エヴェンキ、ナナイなどの人々の調査を行った[6]。
1901年から1904年にかけてアメリカ自然史博物館に雇われ、ジェイコブ・シフをスポンサーとする中国探検を率いた。探検終了後は同博物館の民族学輔佐の職を得た。翌1905年にはコロンビア大学の人類学講師に就任したが(1906年からは東アジア諸言語の講師を兼任)、1907年には大学を去ってシカゴのフィールド自然史博物館のキュレーターになった(1907年から東アジア部門のassistant curator, 1911年にアジア民族学部門のassociate curator, 1915年に人類学部門のcurator)。
1907年から1911年まで、ラウファーは博物館のためにチベットを探検しようとしたが、チベット入りには失敗した。かわりに中国各地で古物約8000点を収集して博物館に納めた[7]。中華民国時代の1923年に短期間中国を訪れて約1800点の品を得ているが、その多くは紫禁城から流出したものであったという[8]。1931年にシカゴ大学の名誉法学博士の学位を贈られた[2]。
1934年9月13日、住んでいたホテルの8階の非常出口から落ちて死んだ。癌を苦にしての自殺とされる[9]。没後、その蔵書はフィールド博物館に寄贈された[10]。
研究内容・業績
とくに中国とその周辺のさまざまな文物に関する研究が多い。当時のアメリカには中国研究者といえる人物がほとんどいない中、ラウファーの研究は異彩をはなっていた。
- 1 ベルトルト・ラウファーとは
- 2 ベルトルト・ラウファーの概要
- 3 主要な著書
- 4 参考文献
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