ヘリー・クネットマン ヘリー・クネットマンの概要

ヘリー・クネットマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/18 17:28 UTC 版)

獲得メダル
オランダ
ロードレース
世界選手権自転車競技大会
1978 ニュルブルクリンク プロロード
ヘリー・クネットマン (1976)

ヘリー・クネトマンのほうが原音に近い思われるが、検索サイトや自転車競技雑誌を見る限り、日本ではクネットマンと表記されることが多い傾向が見られることから、それに倣うことにする。

経歴

ガン・メルシエとプロ契約を結んだ1974年アムステルゴールドレースを制覇。

1975年ツール・ド・フランスに出場。第12ステージを制した。

そして1976年、名将・ペーター・ポスト率いる、TI・ローリーに移籍。同チームは、ヨープ・ズートメルクヤン・ラースヘニー・キュイパーらの同胞選手を中心とした、当時の自転車チームとしては最強の布陣と言われたチーム力を誇っていたが、クネットマンは解散年となる1983年まで在籍。移籍初年となる同年、オランダ一周を総合優勝。

1977年ダンケルク4日間レースで総合優勝を果たし、ツール・ド・フランスでは、第19、第21ステージを制した。

そして1978年、選手生活のクライマックスを迎える。パリ〜ニースを総合優勝(区間2勝)、ツール・ド・フランスでは、第18、22ステージを制覇。そして、ニュルブルクリンクで開催された世界選手権において、フランチェスコ・モゼール(2位)の連覇を阻み優勝。この他、パトリック・セルキュと組んで、ヘント6日間レースでも優勝している。

1979年ツール・ド・フランスのプロローグを制し、マイヨ・ジョーヌに袖を通す。また同レースでは、第22ステージも制した。

1980年、オランダ一周で総合優勝を果たし、ツール・ド・フランスでは第12ステージを制覇。また、マイヨ・ジョーヌも1日保持。

1981年、オランダ一周を連覇。ツール・ド・フランスでは4日間、マイヨ・ジョーヌを保持した。

1982年ツール・ド・フランスにおいて、第4、第9(チームタイムトライアル)、第11ステージを優勝。また、デ・パンネ3日間を制した。

しかし、1983年のツール・ド・ベルギーにおける落車事故により、同年シーズンの大半を棒に振ったばかりか、同年限りでTI・ローリーが解散となった影響も大きく、その後のロードレースにおける主要優勝実績は、1985年のアムステルゴールドレース及び、1986年のオランダ一周総合優勝といった程度にどとまった。1991年に現役を引退。

引退後はオランダナショナルチームの代表選考委員の職に就く傍ら、1992年ヴィレム=アレクサンダー王太子とともにニューヨークマラソンに参加して話題となる。2004年、北ホラント州のベルヘンにおいて、マウンテンバイクでツーリング中に突然倒れたが、同年11月2日心筋梗塞のため死去した。

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヘリー・クネットマン」の関連用語

ヘリー・クネットマンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヘリー・クネットマンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヘリー・クネットマン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS