フランス軍事顧問団 (1867-1868)
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戊辰戦争
慶応4年(明治元年)1月19日(1868年2月12日)、ロッシュは江戸城で徳川慶喜と会見し、再度の挙兵を促したが拒否された。1月25日(2月18日)には英米蘭伊普にフランスも加わった6ヶ国が、戊辰戦争に対する局外中立を宣言した。このため、軍事顧問団は3月には江戸から横浜へ転居した。さらに明治政府が成立すると、顧問団は日本を離れるように勅命によって告げられた。しかしながら、ジュール・ブリュネ大尉と部下のカズヌーヴ伍長はイタリア公使宅で催された芝居の混雑に紛れて脱走[1]、慶応4年8月19日(1868年10月4日)には旧幕府艦隊に合流して仙台に向った。さらに仙台でフォルタン、マルラン、ブッフィエの3人が加わり、彼ら5人は日本に留まり、旧幕府を支援することを選んだ。なお、フォルタン、マルラン、ブッフィエ(もしくはイワール)の3人はイタリア人商人、ジャーコモ・ファルファラ(Giacomo Farfara)がチャーターした英国船籍の商船、ガウチョ号で仙台に渡ったことを伝える史料が残されている[2]。
旧幕府軍が箱館を占拠すると、ブリュネは江戸幕府の海軍副総裁であった榎本武揚を総裁とする蝦夷共和国(箱館政権)の創設を支援した。また陸軍奉行の大鳥圭介を補佐して箱館の防衛を軍事的に支援した。陸軍の歩兵部隊は4個の列士満(レジマン、フランス語で連隊を意味する "régiment" をそのまま当て字にした)から構成され4人の下士官がそれぞれ指揮をとった。なお、ジャーコモ・ファルファラによれば、ブリュネは1868年12月時点で「天皇政府は近いうちに徳川軍による蝦夷島の占領を許すに相違ない。なぜなら、その地を徳川軍に〔ママ〕争奪する十分な軍事力を有しないから」という楽観的な見通しを語っていたという[2]。
明治2年4月9日(1869年5月20日)、新政府軍は北海道に上陸、5月11日(6月20日)五稜郭に立て籠もる箱館政権軍に対し、明治新政府軍の総攻撃が開始され、五稜郭は陥落、5月18日(6月27日)総裁・榎本武揚らは新政府軍に投降する。ブリュネらフランス人らは、榎本の勧めに従い、総攻撃前の5月1日(6月10日)に箱館港に停泊中のフランス船に逃れた。
なお、戊辰戦争には、軍事顧問団の脱走者5人に加え、さらに5人のフランス人が函館で榎本軍に参加している。フランス海軍の士官候補生であったアンリ・ポール・イポリット・ド・ニコールとフェリックス・ウージェーヌ・コラッシュの2人は横浜に停泊中のフランス軍艦から脱走した。さらに、元フランス海軍の水兵で横浜に住んでいたクラトー、元陸軍軍人だったらしいトリポー、横浜在住の商人オーギュスト・ブラディエが加わった。このうち、ニコール、コラッシュ、クラトーの3人は宮古湾海戦に参加し、コラッシュは捕虜になった。このとき幕府側がとった、甲鉄への斬り込みによってこれを奪取するアボルダージュ戦術(フランス語: Abordage、英語: Boarding)は、ニコールの発案であった。
- ^ 榎本釜次郎「降賊糺問口書」(日本国際協会『大日本外交文書』第2巻第3冊、110-112ページ)
- ^ a b ベルテッリ・ジュリオ・アントニオ「イタリア商人ジャーコモ・ファルファラの未刊日誌 : 戊申戦争時(1868-69年)の北日本の旅より」『イタリア学会誌』第66号、イタリア学会、2016年、21-52頁、NCID AN00015107。
- ^ a b 沢護 1987, p. 276-277.
- ^ 沢護 1987, p. 273-274.
- ^ a b 沢護 1987, p. 280-284.
- ^ 沢護 1987, p. 284.
- ^ 沢護 1987, p. 289.
- ^ a b 沢護 1987, p. 286.
- ^ 沢護 1987, p. 290-292.
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