フランス軍事顧問団 (1867-1868) その後

フランス軍事顧問団 (1867-1868)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/29 16:08 UTC 版)

その後

シャノワーヌはその後も順調に出世して当時のフランス軍最高位である師団将軍に昇進し、1898年9月17日から10月26日まで陸軍大臣となった。デシャルム、ジョルダンも陸軍で将軍となっている[3]

ブリュネは帰国後、日本政府の抗議により陸軍が設置し形ばかりの調査委員会にかけられた。ブリュネは予備役とされたが、まもなく普仏戦争が勃発したため、現役に復帰した[4]。その後も順調に昇進を続け、師団将軍となり、シャノワーヌの大臣在任中は陸軍大臣官房長を勤めた。ブリュネは3回日本政府から叙勲されており、1895年(明治28年)の叙勲では日清戦争に対する功績としてシャノワーヌ、デシャルム、ジョルダンとともに叙勲されている[3]

デュ・ブスケはフランス公使館の通訳として明治後も日本に残り、その後、兵部省左院に採用され御雇い外国人となった。日本政府との契約が満期完了した後も、フランス領事として日本に留まり、1882年6月18日に東京で死亡した。日本人と結婚し、子孫は日本に帰化し、その系図は現在も続いている。

マルラン、フォルタン、ブッフィエの下士官3人は箱館戦争の後はサイゴンに滞在していたが、明治3年(1870年)に兵部省兵学寮の教員として雇われた[5]。マルランは明治5年(1872年)に病死した[6]。明治8年(1870年)、フォルタンとブッフィエは陸軍省によって解雇された[5]。フォルタンはブッフィエから出資を受け、事業を始めたがまもなく行き詰まり、1882年以降の消息はわかっていない[7]。ブッフィエは日本で結婚し、1881年に死亡した[8]。息子はフランス国籍であったため、第一次世界大戦でフランス軍に徴兵され、戦後は横浜に戻った[8]

カズヌーヴは明治6年(1867年)に再来日し、馬の改良・増産を行えるとして明治政府に売り込んだ。カズヌーヴは宮内省、ついで陸軍省に雇用されたが、明治7年(1868年)に磐城国浪江で病没した[9]

グッチグは日本人への五線譜の指導での嚆矢となり、その作曲作品は維新後も陸軍軍楽隊を中心に引き継がれ、西洋音楽受容の大きな力となった。


  1. ^ 榎本釜次郎「降賊糺問口書」(日本国際協会『大日本外交文書』第2巻第3冊、110-112ページ)
  2. ^ a b ベルテッリ・ジュリオ・アントニオ「イタリア商人ジャーコモ・ファルファラの未刊日誌 : 戊申戦争時(1868-69年)の北日本の旅より」『イタリア学会誌』第66号、イタリア学会、2016年、21-52頁、NCID AN00015107 
  3. ^ a b 沢護 1987, p. 276-277.
  4. ^ 沢護 1987, p. 273-274.
  5. ^ a b 沢護 1987, p. 280-284.
  6. ^ 沢護 1987, p. 284.
  7. ^ 沢護 1987, p. 289.
  8. ^ a b 沢護 1987, p. 286.
  9. ^ 沢護 1987, p. 290-292.





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