フェルナンド3世 (カスティーリャ王)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 08:50 UTC 版)
子女
1219年、ローマ王フィリップの娘ベアトリス・デ・スアビアと結婚、10人の子を儲けた。
- アルフォンソ10世(1221年 - 1284年)
- ファドリケ(1223年 - 1277年)
- フェルナンド(1225年 - 1243年/1248年)
- レオノール(1227年 - ?)
- ベレンゲラ(1228年 - 1288年/1289年)
- エンリケ(1230年 - 1304年)
- フェリペ(1231年 - 1274年)
- サンチョ(1233年 - 1261年)
- マヌエル(1234年 - 1283年) - アルフォンソ11世の摂政フアン・マヌエルの父。
- マリア(1235年)
1237年、ポンチュー女伯ジャンヌ・ド・ダンマルタンと再婚、5人の子を儲けた。
- フェルナンド(1239年 - 1260年) - オマール伯
- レオノール(1241年 - 1290年) - イングランド王エドワード1世と結婚。
- ルイス(1243年 - 1269年)
- シモン(1244年)
- フアン(1245年)
脚注
参考文献
- 『世界伝記大事典〈世界編 8〉ハルーフユ』ほるぷ出版、1981年。
- D.W.ローマックス著、林邦夫訳『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』刀水書房、1996年。
- 芝修身『真説レコンキスタ <イスラームVSキリスト教>史観をこえて』書肆心水、2007年。
- 関哲行・立石博高・中塚次郎『世界歴史大系 スペイン史 1 -古代~中世-』山川出版社、2008年。
- 芝修身『古都トレド 異教徒・異民族共存の街』昭和堂、2016年。
- 西川和子『スペイン中世列女物語 歴史を動かす"華麗"な結婚模様』彩流社、2019年。
関連項目
- ロベーラ (刀剣) - フェルナンド3世の王権力の象徴としていた刀剣
- ログローニョ
- メスキータ
- トレド大聖堂
- ブルゴス大聖堂
- 聖フェリセス・デ・ビリビオの巡礼祭
- キリスト教の聖人一覧
注釈
- ^ 1206年に母方の祖父のカスティーリャ王アルフォンソ8世と父アルフォンソ9世がカブレロス条約を結び、アルフォンソ9世の最初の結婚無効が再確認され、アルフォンソ9世とベレンゲラの長男であるフェルナンドが長男として認知、レオンの継承で有利になった。しかし一方で、1158年にカスティーリャとレオンが締結したサアグン条約では、どちらか一方の王家が子が無いまま断絶した場合、他方が継承することが決められ、両国の継承は不安定だった[1]。
- ^ アブドゥル・ワーヒド1世は1224年にマラケシュの族長たちにカリフとして擁立されたが同年に暗殺され、アーディルが次のカリフに擁立された。しかしバイヤーシーとの抗争でフェルナンド3世に付け入る隙を与えてしまい、1227年にアブドゥル・ワーヒド1世と同じくマラケシュ族長たちに暗殺された。このためムワッヒド朝のカリフを巡る内乱は更に混沌となり、ヤフヤー・ムウタスィムとイドリース・マアムーンが族長たちに擁立され、両者がモロッコで死闘を繰り広げている間にムルシアでイブン・フードが独立、チュニジアもアブー・ザカリーヤー1世がハフス朝を建国して独立、マアムーンがタウヒード思想を否定して分裂を加速させるなど、衰退していくムワッヒド朝の援助を受けられなくなったイベリア半島のムスリムは独力でキリスト教国に立ち向かうしかなかった[9]。
- ^ バレンシア総督アブー・ザイドは前述の通りカスティーリャに臣従していたが、ザイヤーン・イブン・マルダニーシュに追放され、代わってバレンシア王国を乗っ取ったマルダニーシュは1232年からハイメ1世のバレンシア征服活動に直面、なす術も無く1238年に降伏を余儀無くされた[22]。
出典
- ^ 西川和子 2019, p. 146,150,161-162.
- ^ 芝修身 2007, p. 132-133.
- ^ 西川和子 2019, p. 158-161.
- ^ a b c d e 世界伝記大事典 1981, p. 365.
- ^ D.W.ローマックス & 林邦夫, p. 180.
- ^ 芝修身 2007, p. 145-146.
- ^ 芝修身 2016, p. 118-119.
- ^ 西川和子 2019, p. 165-168.
- ^ D.W.ローマックス & 林邦夫, p. 187-188,191-192.
- ^ D.W.ローマックス & 林邦夫, p. 187-188.
- ^ 関哲行, 立石博高 & 中塚次郎 2008, p. 115.
- ^ D.W.ローマックス & 林邦夫, p. 188-189.
- ^ 芝修身 2007, p. 146.
- ^ D.W.ローマックス & 林邦夫, p. 189-191.
- ^ D.W.ローマックス & 林邦夫, p. 195-197.
- ^ a b c d e f g 芝修身 2007, p. 147.
- ^ D.W.ローマックス & 林邦夫, p. 197-198.
- ^ D.W.ローマックス & 林邦夫, p. 198-200.
- ^ a b c 関哲行, 立石博高 & 中塚次郎 2008, p. 119.
- ^ 芝修身 2016, p. 119.
- ^ D.W.ローマックス & 林邦夫, p. 197,200-201.
- ^ D.W.ローマックス & 林邦夫, p. 202-203.
- ^ D.W.ローマックス & 林邦夫, p. 201-204.
- ^ a b c 関哲行, 立石博高 & 中塚次郎 2008, p. 162.
- ^ D.W.ローマックス & 林邦夫, p. 204-205.
- ^ D.W.ローマックス & 林邦夫, p. 205-206.
- ^ D.W.ローマックス & 林邦夫, p. 206-207.
- ^ D.W.ローマックス & 林邦夫, p. 207-210.
- ^ 芝修身 2016, p. 119-120.
- ^ D.W.ローマックス & 林邦夫, p. 210-213.
- ^ a b c 世界伝記大事典 1981, p. 366.
- ^ 関哲行, 立石博高 & 中塚次郎 2008, p. 162-163.
- ^ D.W.ローマックス & 林邦夫, p. 188-189,198-199,204,207,213-216.
- ^ 芝修身 2007, p. 147-148,228-229.
- ^ a b 芝修身 2016, p. 120-121.
- ^ 芝修身 2016, p. 120-121,156-157.
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