ジャンヌ・ド・ダンマルタンとは? わかりやすく解説

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ジャンヌ・ド・ダンマルタン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/05 07:19 UTC 版)

ジャンヌ・ド・ダンマルタン
Jeanne de Dammartin
カスティーリャ・レオン王妃
在位 1237年 - 1252年
別称号 オマール女伯
ポンチュー女伯

出生 1220年
死去 1279年3月16日
フランス王国アブヴィル
埋葬 フランス王国、アルグル、ヴァロワール修道院英語版
結婚 1237年 ブルゴス
1254年
配偶者 カスティーリャレオンフェルナンド3世
  ファルヴィーおよびラ・エレル領主ジャン・ド・ネール
子女 フェルナンド
レオノール
ルイス
ヒメノ
フアン
ギー
イド
家名 ダンマルタン家
父親 オマール伯シモン・ド・ダンマルタン
母親 ポンチュー女伯マリー
宗教 ローマ・カトリック
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ジャンヌ・ド・ダンマルタンJeanne de Dammartin1220年頃 - 1279年3月16日)は、フランスのオマール女伯、ポンチュー女伯。オマール伯シモン・ド・ダンマルタンとポンチュー女伯マリーの子。母方の祖母はフランス王女アデル

生涯

1230年頃、父シモンがフランス王ルイ9世との婚約を整えるが、後にルイによって破棄された[1]。1237年、ブルゴスにてカスティーリャ・レオンフェルナンド3世と結婚し、5子をもうけた。カスティーリャ語ではフアナ・デ・ダンマルティン(Juana de Danmartín)と呼ばれた。

1252年にフェルナンド3世に先立たれると、ジャンヌは引退し自分の領地に戻った。1254年頃、ファルヴィーおよびラ・エレル領主ジャン・ド・ネールと再婚、2子をもうけた。

  • ギー - アルスレーヌおよびオカンクール領主
  • イド(フィリップ) - フランス元帥ロベール8世ベルトラン・ド・ブリックベックと結婚

1259年、従姉であるブローニュ女伯およびダンマルタン女伯マティルド・ド・ダンマルタンが死ぬと、ジャンヌはブローニュ伯領の相続を目論んだ。しかし、パリ高等法院は1262年に裁定を下し、ブローニュ伯領はアデライード・ド・ブラバン(母がブローニュ女伯マリーの娘)に、ダンマルタン伯領はル・ヴォーマン領主マチュー・ド・トリに相続させた。

脚注

  1. ^ François César Louandre, Histoire ancienne et moderne d'Abbeville et son arrondissement, 1834, p. 96.
先代
マリー
ポンチュー女伯
1239年 - 1278年
次代
エリナー・オブ・カスティル
先代
シモン・ド・ダンマルタン
オマール女伯
1239年 - 1278年
フェルディナン1世フェルディナン2世およびジャン1世と共治)
次代
ジャン1世



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