ピニョー・ド・ベーヌ ピニョー・ド・ベーヌの概要

ピニョー・ド・ベーヌ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/24 17:00 UTC 版)

ピニョー・ド・ベーヌ
Pigneau de Behaine
ピニョー・ド・ベーヌ(モーペラン画、1787年)
管区 コーチシナ使徒座代理区
着座 1771年9月24日
離任 1799年10月9日
前任 ギヨーム・ピゲル
後任 ジャン・ラバテット
聖職
司教叙階 1771年9月24日
個人情報
本名 Pierre Joseph Georges Pigneau
ピエール・ジョゼフ・ジョルジュ・ピニョー
出生 (1741-11-02) 1741年11月2日
フランス王国エーヌ県オリニー=アン=ティエラシュ
死去 (1799-10-09) 1799年10月9日(57歳没)
大越、施耐港
教派・教会名 キリスト教カトリック教会
出身校 パリ外国宣教会神学校
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生涯

サイゴン大教会前にあったピニョーの像。現在はマリア像に置き換えられている
サイゴンにあったピニョーの墓。現在は取り壊されて公園になっている

エーヌ県オリニー=アン=ティエラシュ英語版で生まれた[2]パリ外国宣教会神学校フランス語版を卒業し、1765年に同会の宣教師としてコーチシナの河僊(現在のキエンザン省ハティエン)に赴任[1]

1769年に迫害を逃れて一時フランス領インドポンディシェリへ行き、アドラン名義司教英語版に任じられる[1]。1775年河僊に戻り、西山党の乱によって追放の身となった阮福映と会い積極的に援助。同行したフランス人たちは阮福映にヨーロッパ式の軍事技術で貢献した。

1787年に阮福映の長男阮福景を伴ってフランスに帰国。ルイ16世に謁見し、フランスと阮福映の攻守同盟の成立(ヴェルサイユ条約)に尽力した[2][1]。しかし、コーチシナへの遠征軍の編成はインド駐在の軍司令官トーマス・コンウェイ英語版の反対に遭い実現しなかった。そこでピニョーは武器と義勇兵を募って[1]1789年コーチシナに戻り西山朝と戦うが、西山朝の拠点帰仁を攻撃中に捕らえられ、暑さと疲労で衰弱したのが元で赤痢にかかり、58歳で死去した。

遺体は軍令を持って迎えられ、阮福映が弔辞を読んだ。ピニョーは安南語ラテン語辞書を製作しており、死後に出版された。サイゴンにあったピニョーの墓は1983年にベトナム社会主義共和国政府により取り壊され、遺体は焼かれてフランスへ送られた。現在、パリ外国宣教会に遺灰が安置されている。

参考文献

  • 小倉貞男『物語 ヴェトナムの歴史』〈中公新書〉。 

出典

  1. ^ a b c d e "ダドラン司教". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2020年7月10日閲覧
  2. ^ a b "ピニョー・ド・ベーヌ". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2020年7月10日閲覧



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