ビルマの戦い 日本軍の進攻(1941-1942年)

ビルマの戦い

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日本軍の進攻(1941-1942年)

日本軍のビルマ進攻作戦
日本軍のビルマ中北部進攻と連合軍の退却経路

太平洋戦争開戦後間もなく、日本軍はビルマ独立義勇軍の協力のもとイギリス軍を急襲し、首都ラングーンを早期に陥落させた。ビルマ中北部では連合国軍に蒋介石が送った遠征軍も加わり、激戦となったが、日本軍はビルマ全域を制圧した。連合軍は多くの犠牲者と捕虜を残して退却した。

日本軍のビルマ進攻作戦

ラングーン陥落

1941年12月8日、日本はアメリカ、イギリスへ宣戦布告し太平洋戦争が開始された。開戦と同時に、第33師団および第55師団を基幹とする日本軍第15軍タイへ進駐し、ビルマ進攻作戦に着手した。まず宇野支隊(歩兵第143連隊の一部)がビルマ領最南端のビクトリアポイント(現在のコートーン英語版)を12月15日に占領した。南機関も第15軍指揮下に移り、バンコクでタイ在住のビルマ人の募兵を開始した。12月28日、「ビルマ独立義勇軍」(Burma Independence Army, BIA)が宣誓式を行い、誕生を宣言した。

タイ・ビルマ国境は十分な道路もない険しい山脈だったが、第15軍はあえて山脈を越える作戦を取った。沖支隊(歩兵第112連隊の一部)は1942年1月4日に国境を越えてタボイ(現在のダウェイ)へ向かい、第15軍主力は1月20日に国境を越えてモールメン(現在のモーラミャイン)へ向かった。BIAも日本軍に同行し、道案内や宣撫工作に協力した。日本軍は山越えのため十分な補給物資を持っていなかったが、BIAとビルマ国民の協力により、給養には不自由せずに行動できた。さらにビルマの青年たちは次々とBIAへ身を投じた。

モールメンを含むテナセリウム(現在のタニンダーリ管区)を守るイギリス軍は英印軍第17インド師団だった。しかしこの部隊は準備不足で、日本軍の急襲を受けて退却に移り、2月22日、アーチボルド・ウェーヴェルは逃げ遅れた友軍を置き去りにしたままシッタン川の橋梁を爆破した。日本軍はサルウィン川とシッタン川を渡って進撃し、3月8日首都ラングーンを占領した。ウェーヴェルは責任を問われて解任された。

連合軍総退却

ビルマから脱出するスティルウェル

アメリカ政府はジョセフ・スティルウェル陸軍中将を中国へ派遣した。スティルウェルは中国で駐在武官として勤務した経験が長く、事情に通じ中国語も堪能だった。蒋介石はビルマルート確保のために遠征軍を送ったが、アメリカ政府は遠征軍をスティルウェルの統一指揮下に置くよう要求し、蒋介石も実質上の指揮権を留保しつつこれに同意した[3]。中国軍はビルマ中北部に到着し、ウィリアム・スリム中将が指揮を引き継いだビルマ軍団、シェンノートの率いるフライング・タイガースとあわせて体勢を整えた。

日本軍では、シンガポール攻略が予想以上に順調に進展したことから兵力に余裕が生じていた。そこでビルマ全域の攻略を推進することとし、第18師団第56師団をラングーンへ増援した。両軍の戦闘は各地で激戦となった。特に孫立人少将の率いる中国軍新編第38師中国語版は4月17日からの3日間、イナンジョン英語版において第33師団と激しく戦った。

だが4月29日に第56師団がラシオ(現在のラーショー)を占領して中国軍の退路を遮断し、5月1日に第18師団がマンダレーを占領すると、連合軍は次第に崩れ始めた。第56師団はビルマ・中国国境を越えて雲南省に入り、5月5日怒江の線まで到達した。中国軍は怒江にかかるビルマルートの命脈「恵通橋」を自ら爆破した。

連合軍は総退却に移った。中国軍の大部分は雲南へ、孫立人をはじめとする一部はスティルウェルと共にフーコン河谷を経てインドのアッサム州へ脱出した。スリムのイギリス軍とビルマ総督レジナルド・ドーマン=スミス英語版チンドウィン川を渡りインパール方向へ退却した。5月中旬からビルマは雨季に入り、連合軍の退却は困難をきわめた。将兵は疲労と飢餓とに倒れ、多くの犠牲者と捕虜が残された。5月末までに日本軍はビルマ全域を制圧した。

日本軍のインド北東部進攻計画(二十一号作戦)

援蒋ルートは実はもうひとつ生き残っていた。アッサム州のチンスキヤ飛行場からヒマラヤ山脈を越えて昆明へ至る「ハンプ越え」[注 1]The Hump)と呼ばれる空輸ルートである。危険性が高く、輸送量は月量5,000トンが限度だったが、人と物資の往来は続けられ中国軍は戦力を蓄えていった。日本軍はハンプ越えを遮断すべく、雨季明け後の10月頃を目標に、第18師団と第33師団をもってインド北東部へ進攻する「二十一号作戦」を立案した。だが補給確保の困難を理由に第18師団長牟田口廉也中将も反対し[4]、作戦は実施には至らなかった。

日本軍によるビルマ軍政

開戦時には日本軍はビルマの全面占領までは意図しておらず、第15軍は軍政部を持っていなかった。那須義雄大佐を長とする軍政部が設置されたのはラングーン占領後である。5月13日、マンダレー北方のモゴク監獄から脱出していたバー・モウが日本軍憲兵隊によって発見された。これまでオンサンもビルマの指導者としてバー・モウを推奨していたこともあって、8月1日、バー・モウを行政府長官兼内務部長官としてビルマ中央行政府が設立され、長官任命式が行われた。

BIAはビルマ作戦が終了した時点で23,000人に膨張していた。規律は弛緩し、部隊への給養も問題となっていたためBIAは解散された。選抜した人員をもって「ビルマ防衛軍」(BDA)が設立された。

日本軍は戦勝後のビルマ独立を予定し、ビルマ国民の軍政への協力を要求する一方で、批判的な民族主義者や若いタキン党員の政治参加は抑圧した。




注釈

  1. ^ 「ハンプ」とは「こぶ」の意味である。
  2. ^ 『大東亜戦争全史』, pp.419-420 に記載されている部隊番号は誤りとみられる。
  3. ^ 兵1名は途中で脱落し、2名が第33軍司令部までたどり着いた。
  4. ^ (戦史叢書32 1969, pp. 501-502)厚生省援護局1952年調べ。陸軍のみであり、航空部隊は含まない。終戦直前にタイ、インドシナ等の他戦域に転進した兵力が少なくないが、それらを含め、ビルマ作戦に従事した部隊の作戦間の兵力、損害を調査したものである。戦没者数にはインドおよび雲南省での戦没者並びに輸送船沈没による戦没者を含んでいる。
  5. ^
  6. ^ 象徴的な存在としてチドウィン川の鉄橋復旧工事など。
  7. ^ 現在、Paluzawa coal mines と呼ばれている。
  8. ^ 質については久留島秀三郎はボイラー炭としては十分使え、常磐炭よりも良質だが、九州や北海道の一等炭よりは劣ると述べている。
  9. ^ 当時、ミャンマーは石炭をインドからの輸入に依存しており、エネルギーの自給は課題であった。
  10. ^ 委員長、甲谷秀太郎

出典

  1. ^ 戦史叢書5 1967, pp. 1-2.
  2. ^ 戦史叢書5 1967, pp. 12-16.
  3. ^ 戦史叢書5 1967, p. 316.
  4. ^ 戦史叢書5 1967, p. 565.
  5. ^ ソーン 1995a, p. 422.
  6. ^ ソーン 1995a, 66, 330.
  7. ^ ソーン 1995a, pp. 422-425.
  8. ^ タックマン 1996, pp. 344-370.
  9. ^ 太田常蔵 1967, pp. 326-329.
  10. ^ アレン 1995c, pp. 198-199.
  11. ^ 太田常蔵 1967, p. 429.
  12. ^ 太田常蔵 1967, pp. 423-424.
  13. ^ アレン 1995c, p. 198.
  14. ^ 『ビルマの夜明け - バー・モウ(元国家元首)独立運動回想録』373頁。
  15. ^ アレン1995b, pp. 177-178.
  16. ^ アレン 1995c, 付録 p.4.
  17. ^ 服部卓四郎 1965, p. 605.
  18. ^ 戦史叢書25 1969, pp. 208-212.
  19. ^ 『戦史叢書 イラワジ会戦』では、各師団固有部隊将兵の40 - 50パーセントが死亡、残りの50 - 60パーセントのうち約半数が後送患者と推定し、軍直轄部隊及び各師団配属部隊の損耗については集計困難としている[18]
  20. ^ 太田常蔵 1967, pp. 443-446.
  21. ^ 戦史叢書92 1976, pp. 424-425.
  22. ^ 太田常蔵 1967, p. 466.
  23. ^ アレン 1995c, p. 221.
  24. ^ アレン 1995c, p. 196.
  25. ^ アレン 1995c, 付録 p.9.
  26. ^ アレン 1995c, pp. 292-293.
  27. ^ The Merrill's Marauders Site
  28. ^ タックマン 1996, pp. 544-572.
  29. ^ タックマン 1996, p. 596.
  30. ^ 春秋2014/7/12付 -日本経済新聞
  31. ^ 高塚年明、参議院常任委員会調査室・特別調査室(編) (2006年6月29日). “国会から見た経済協力・ODA(1)〜賠償協定を中心に〜 (PDF)”. 2017年1月18日閲覧。
  32. ^ 佐久間平喜 1993, pp. 10-11.
  33. ^ 藤井厳喜 (2014年2月26日). “【世界を感動させた日本】教科書が教えない歴史 ミャンマー、インドネシア独立に尽力した日本人に勲章”. ZAKZAK. http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140226/dms1402260733000-n1.htm 2017年1月18日閲覧。 
  34. ^ 馬場公彦 2004, p. 132.
  35. ^ 馬場公彦 2004, pp. 134-135.
  36. ^ 第24国会海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会(1956年03月30日)における厚生省引揚援護局の美山要藏の説明他
  37. ^ 「片倉衷氏 死去=元陸軍少将」『毎日新聞』1991年7月24日大阪朝刊23面
  38. ^ 「日本兵眠るインパールで、慰霊碑を建立へ インド」『毎日新聞』1993年5月20日大阪夕刊11面
    38 海外戦没者遺骨収集等 平成5年度厚生白書
  39. ^ インパールにある慰霊施設英霊にこたえる会』HP内 靖国神社
  40. ^ インド平和記念碑 厚生労働省HP内
  41. ^ ミャンマー、ビルマ、インパール慰霊巡拝”. キャラウェイツアーズ. 2007年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月18日閲覧。
  42. ^ ビルマ侵攻作戦 1968, pp. 241-250.
  43. ^ アレン 1995c, 付録 pp.23-24.
  44. ^ アレン 1995c, 付録 62-85を参考に補足した。
  45. ^ 馬場公彦 2004, pp. 9-10.
  46. ^ 馬場公彦 2004, p. 40.





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