トイレ遺構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/24 05:23 UTC 版)
ミノア文明
ギリシアのクレタ島は、小アジア系のクレタ人による海洋文明(ミノア文明・紀元前20世紀~紀元前14世紀)の栄えたことで知られ、未解読の線文字Aの存在が有名である。ここでは下水道につながった木製の便座が見つかっている(水洗式便所)。
中国の豚便所
前漢代(紀元前2世紀~)からさかんになり後漢代(〜紀元後3世紀)には全国に普及する中国の遺物に「瓦製明器」がある。これは、墓の中に副葬するため、実物の器物の代用としてつくられたミニチュア模型である。この明器のなかに「圂」(こん、クニガマエに豕)というブタを飼う畜舎がある。垣のなかではブタが飼われ、垣の壁上に小屋があり、その小屋で人が用を足すと糞は下の放牧場に落ちてブタの餌となる仕組みである。この豚便所は遅くとも前漢代には始まり、中国では近代まで利用されていた。
このしくみは台湾や沖縄県方面にも伝わり、沖縄県では「フル」(首里)、「フリマア」(石垣島)、「フアフル」(糸満)などと呼称され、その語源は「風呂」と考えられている。今日では衛生面での不安を考慮され使用禁止となっている。
古代ギリシア
古代ギリシアでは、意外なことにほとんどトイレには気を配らなかった。アテネの古代遺跡からも下水施設は見つかっていないし、当時の記録にも「下水」という記述は一切見えないという。当然、町はきわめて不潔であり、チフス、ペスト、天然痘などの病気がたびたび猛威を振るった。古代ギリシア文明衰亡の遠因の一つに、このトイレの欠如を挙げる人もいるくらいである。個人の住宅にも都市においてもトイレは設置されず、人々が出す汚物はほぼ垂れ流しに近いものであったと推定される。アリストパネスの喜劇作品にも、人々が表に出て用を足す場面が描かれている。また、これらの排泄物はしばしば城壁の外に捨てられた。アリストテレスの著書『アテネ人の国制』には、アテネの市域監督官の役目の一つに「汚物の処理が城壁から一定以上離れた場所で行われているか」の監視があった、と書き残している。
古代ローマ
ポンペイ遺跡(イタリア)は西暦79年にウェスウィウス火山(ヴェスヴィオ火山)の噴火により埋もれてしまったローマ時代の都市として知られる。個人住宅跡では一般的に穴を1個空けただけの便所が台所かその近くにあった。たとえば、所有者の知られる「ケイウスの家」では台所の一画にあり、台所から2階にあがる階段の下がトイレ空間になっていた。下水設備が完備していたのは公衆トイレだけであった。
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