チャイコフスキーの死 チャイコフスキーの死の概要

チャイコフスキーの死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/21 14:14 UTC 版)

アレクサンドル・ネフスキー大修道院にあるチャイコフスキーの墓

概要

1893年11月6日、サンクトペテルブルクでチャイコフスキーが53歳で亡くなった。交響曲第6番の初演から9日後の出来事だった。死因には諸説あるが、一般にはコレラ、並びに併発した肺水腫が原因だとされている。チャイコフスキーの死の直後にも死因に対して様々な議論があった。

コレラの発病の原因として、チャイコフスキーが周りの反対を聞かず生水を飲んだことが理由とされている。当時のロシアにはコレラが流行しており社会に多大な影響を与えていたが、それは主に衛生設備に恵まれない下層階級の人々の病気と考えられており、様々な噂を呼んだ。治療を担当した医師のカルテの正確性も疑問視されていた。後述するように、チャイコフスキーが同性愛者だったことも様々な噂を呼ぶ原因となった。チャイコフスキーは1894年の予定を決めていたことや、自殺説には決定的な証拠がないことから、現在ではコレラで死亡したという説が一般的である。

最期の日々

ケンブリッジ大学名誉博士号授与式でのチャイコフスキー《1893年6月13日

以下はコレラ、並びに併発した肺水腫による最も一般的な死亡説である。

1893年11月1日(ユリウス暦10月20日)、チャイコフスキーはアレクサンドリンスキー劇場でアレクサンドル・オストロフスキーの演劇「熱き心」を鑑賞後、サンクトペテルブルクのレストラン「ライナー」で甥たちと共に食事をした[1](現在そのレストランは文学カフェになっている)。チャイコフスキーはそこで水を注文した。レストランでは沸騰させ殺菌した水の提供が出来なかったが、チャイコフスキーは周りの反対を聞かず、そのまま生水を飲んだ[2]

翌日の朝、チャイコフスキーは激しい腹痛と下痢に襲われた。胃痛は30代の頃からの彼の持病で、ヴィシーの温泉などで数年おきに療養していた。また、炭酸ナトリウム一匙をグラス一杯の水に注いだものなど、お気に入りの「薬」を服用していた。このとき、オデッサ歌劇場の指揮の依頼を承諾している。帰宅した弟モデストは、事態の深刻さを悟って、医師を呼んだがチャイコフスキーは不在だった。その日の夜、もう一度往診に訪れた医師は病状に驚いて別の高名な医師を呼んだ。そのときチャイコフスキーはコレラと診断された。病状は刻々と悪化したが、翌朝にかけていったんは危機を乗り越えた[1]

3日後の24日にメディアがコレラの発病を初めて報じた。部外者の訪問は禁止され、夜8時には昏睡状態に陥る。10時には肺水腫を併発した。イサアク大聖堂から司祭が訪れ、死の祈りを唱える。

そして翌日の1893年11月6日(ユリウス暦10月25日)午前3時15分、兄ニコライや弟モデスト、甥ウラジーミルが見守る中で心肺が停止した[3]

弟モデストは死の瞬間を次のように記している。

いままで半ば閉じ、すっかり光を失っていた目が突然大きく見開いた。その目には言葉で表現できないが、はっきりとした意識を示すものが現れていた。彼はその視線を次々とそばに立っている3人の顔に落としていったが、それが済むと天井を見上げた。ほんのわずかのあいだだったが、目の中で何かが輝き、最後の呼吸とともに消えて行った。朝3時ちょっと過ぎのことだった[4]

  1. ^ a b 伊藤恵子『チャイコフスキー』音楽之友社、2005年、178頁。
  2. ^ Poznansky, Tchaikovsky: The Quest for the Inner Man, 579.
  3. ^ 伊藤恵子『チャイコフスキー』音楽之友社、2005年、179頁。
  4. ^ 志鳥栄八郎『憂愁の作曲家チャイコフスキー』朝日新聞者、1993年、132頁。
  5. ^ 伊藤恵子『チャイコフスキー』音楽之友社、2005年、180頁。
  6. ^ 志鳥栄八郎『憂愁の作曲家チャイコフスキー』朝日新聞者、1993年、133頁。
  7. ^ a b c "Asiatic Cholera", Encyclopedia of Brogkauz & Efron (St. Petersburg, 1903), vol. 37a, 507–151. As quoted in Holden, 359.
  8. ^ Poznansky, Tchaikovsky: The Quest for the Inner Man, 596–597.
  9. ^ Orlova, Alexandra, "Tchaikovsky: The Last Chapter", 128. As quoted in Holden, Anthony, Tchaikovsky: A Biography (New York: Random House, 1995), 387.
  10. ^ Orlova, 128, footnote 12. As quoted in Holden, 387.
  11. ^ Poznansky, Tchaikovsky's Suicide: Myth and Reality, 217, note 81. As quoted in Holden, 474, footnote 36.
  12. ^ a b c Holden, 360.
  13. ^ Poznansky, Tchaikovsky: The Quest for the Inner Man, 583.
  14. ^ 三枝成彰『大作曲家たちの履歴書』中央公論社、1997年、355頁。
  15. ^ Holden, 390
  16. ^ Holden, 391
  17. ^ 伊藤恵子『チャイコフスキー』音楽之友社、2005年、181頁。
  18. ^ 志鳥栄八郎『憂愁の作曲家チャイコフスキー』朝日新聞者、1993年、136頁。
  19. ^ 伊藤恵子『チャイコフスキー』音楽之友社、2005年、196頁。


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