ダンヴィユ公爵の遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/28 15:03 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動この遠征は完全な失敗だった。遠征隊は悪天候に悩まされ、大西洋横断に3か月を要した。艦隊の乗組員や兵士は、遠征隊がチェブクト湾(現在のハリファクス港)に到着する前に病気に苦しめられ、ダンヴィユも到着後ほどなくして死亡した。ダンヴィユのあとを継いだ部下たちは、アナポリスロイヤルに襲撃をかけようとしたが、結局は断念してフランスに戻った。
遠征
歴史的背景と航海
1745年のルイブールの戦いで手痛い敗北を味わったフランスは、ダンヴィユに指令を与えた。すなわち、アカディアを奪還し、ヌーベルフランスを守って、アカディアと、ニューファンドランド島のイギリス人入植地に対し、できるだけ大規模な軍事行動を起こすように命令した[2]。
遠征隊は11,000人の兵士及び乗組員、64隻の艦で構成されていた[3]。 海軍中将のダンヴィユは、海軍少将のジャック=ピエール・ド・タファネル・ド・ラ・ジョンキエール(ラ・ジョンキエール侯爵)とコンスタンタン=ルイ・デストゥールメルの助力を得た。出港準備に手間取り、1746年の6月22日になってからエクス島を出港した[2]。アゾレス諸島沖では長い、静まり返った凪の状態が続いた。この後に嵐が来て、数隻の艦に落雷があった。ある艦ではこのために火薬庫が爆発して30人以上が死傷した。8月24日の時点で、出港から2か月以上経過しているのもかかわらず、ノバスコシアまではまだ300リーグ(900マイル、1448キロ)もあった[4]。
ノバスコシア上陸
9月10日、遠征の戦闘集団がサーブル島に上陸した。その3日後に艦が暴風により散らされ、艦に大きな損傷を与えて、その後フランスに戻さざるを得なくなった[4] 。軍艦ル・マール(Le Mars)も損傷を受けた。この艦は暴風の際に、サーブル島の沖に係留されており、損傷がひどく、ル・ラファエル(Le Raphael)と共にフランスに戻されることになった。その後数週間たって、また暴風が吹き荒れ、ル・マールはまたも損傷を受け、ル・ラファエルと離れ離れになった。アイルランドから20リーグ(97キロ)の沖合で、イギリス艦のノッティンガムがル・マールを見つけ、拿捕した[5]。後のフレンチ・インディアン戦争中に、このル・マールは岩に当たって沈没するが、その場所はル・マール・ロックとして今日も知られている[6]。
遠征では、食糧不足、発疹チフス、赤痢、そして壊血病で多くの者が死亡した。ノバスコシア到着後も多くの者が死んで行き、9月27日にはダンヴィユも死亡して、ヌーベルフランスの次期総督であるラ・ジョンキエール侯爵が後を継いだ。しかし10月、ジョンキエールの艦隊はフランスに戻り、その時も多くの乗組員や兵に犠牲者が出て、嵐で艦を失った[7]。
ケベックから、ダンヴィユの遠征隊と合流するため、ジャン=バティスト・ニコラ・ロック・ド・ラムザイの遠征隊が派遣されてきた。フランス人聖職者のジャン=ルイ・ル・ルートルがこの両者の連携を取る予定で、ド・ラムゼイの軍は1746年7月にノバスコシアに到着した。この軍には21人の士官と700人の兵がいて、ボーバサンに野営を張り、セントジョン川の流域から300人のアベナキ族、ノバスコシアからミクマク族を300人招集した。フランスとインディアンの同盟軍は総勢1300人にもなった[8]。ラムザイの兵は夏から秋にかけて、到着が遅れているダンヴィユの遠征隊を待った。この時期ラムザイは、現在のプリンスエドワード島のポール・ラ・ジョワでの激闘を制してイギリス軍40人を殺し、残りを捕虜とした[9]。
アナポリスロイヤル攻撃
チェブクトに錨をおろした44隻の船は、5週間ほどとどめ置かれたままだった。9月29日に、ダンヴィユの代行として指揮を執ったコンスタンタン=ルイ・デストゥーメルが、アナポリスロイヤルへの攻撃のため、遠征隊から1500人の兵士と、ラムザイ軍から300人の兵士を送り込むことを決めた[10]。しかしデストゥールメルは、それだけの任務の遂行能力がなく、そして、指揮官も自分には向かないと考えており、周囲への過剰な気配りから、協力者を募ることをよしとせず、結局、絶望と不安、怒りの末、自分の周囲はすべて敵であるという思いに駆られ、自らの剣で自殺まで図るはめになった[11]。
次に遠征隊の指揮官を引き受けたのは、ヌーベルフランスの次期総督に任命され、艦隊と共にカナダにやって来たジョンキエールだった。アナポリスロイヤル攻撃計画が推し進められる一方で、兵士たちが次々と病気で死んで行き、10月の半ばまでには、チェブクトに上陸した者のうちの41パーセントが死亡、または重体であった。その数は下士官、乗組員そして兵士を含めて12,861人だった。病気はミクマク族や、ラムザイの兵士たちにも伝染して行った[10][12]。
10月半ばまでに、300人のラムザイの軍勢はアナポリスロイヤルに到着した、フランスとインディアンの部隊はアナポリスに野営を張って、3週間の間、兵士と砲兵を乗せた艦隊が着くのを待っていた。彼らはミナスとイギリスの交信の断絶や、砦の駐屯兵とアカディア人の接触の阻止に努めていた[13]。
10月24日、42隻の艦がチェブクトを発った。艦隊では、ミナスに住むアカディア人約50人が案内を務めていた。うち3隻の病院船が危篤状態の者を乗せてフランスに発ち、13隻の艦が、アナポリスロイヤルの攻撃に参加する、94人の士官と1410人の兵士を乗せて出港した。2日後、アナポリスロイヤルへの艦隊がケープネグロを発った時、ジョンキエールは心変わりした。艦隊にフランスへ向かうように命じ、ラムザイに、アナポリスロイヤルを撤退するようにという指示を伝えたのだ[14]。
- ^ James Pritchard (1995). Anatomy of a Naval Disaster: The 1746 French Expedition to North America. McGill-Queen's University Press, Montreal. p. 11
- ^ a b LA ROCHEFOUCAULD DE ROYE, JEAN-BAPTISTE-LOUIS-FRÉDÉRIC DE, - Dictionary of Canadian Biography Online
- ^ James Pritchard. (1995). Anatomy of a Naval Disaster: The 1746 French Expedition to North America. McGill-Queen's University Press, Montreal. pp. 232?233.
- ^ a b John Grenier. (2008). The Far Reaches of Empire: War in Nova Scotia 1710?1760 University of Oklahoma Press p. 130
- ^ James Pritchard. Anatomy of a Naval Disaster. The 1746 French Expedition to North America. McGill-Queen's University Press, Kingston. 1995.
- ^ http://museum.gov.ns.ca/mma/wrecks/wrecks/shipwrecks.asp?ID=3186 ; Beamish Murdoch. A History of Nova Scotia. Vol. 2, p. 277. Note at the time of the sinking, Murdoch indicates that Le Mars was an English man-of-war.
- ^ [1]
- ^ Brenda Dunn. Port Royal-Annapolis Royal. Nimbus Press. 2004. p. 162
- ^ a b D'Anville's Encampment National Historic Site of Canada Canada's Historic Places
- ^ a b Brenda Dunn. Port Royal-Annapolis Royal. Nimbus Press. 2004. p. 163
- ^ ESTOURMEL, CONSTANTIN-LOUIS D’-Dictionary of Canadian Biography Online
- ^ John Grenier. The Far Reaches of Empire: War in Nova Scotia 1710?1760. University of Oklahoma Press 2008. p. 131
- ^ Brenda Dunn. Port Royal-Annapolis Royal. Nimbus Press. 2004. p. 165
- ^ a b Brenda Dunn. Port Royal-Annapolis Royal. Nimbus Press. 2004. p. 166
- ^ Grand Pre 1747 Monument
- ^ John Grenier. (2008). The Far Reaches of Empire: War in Nova Scotia 1710?1760 University of Oklahoma Press, p. 133
- 1 ダンヴィユ公爵の遠征とは
- 2 ダンヴィユ公爵の遠征の概要
- 3 ラムザイとその後のアカディア
- 4 参考文献
- ダンヴィユ公爵の遠征のページへのリンク