スラバヤ沖海戦 評価

スラバヤ沖海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 02:31 UTC 版)

評価

この海戦の大きな特徴としては第一次昼戦からポープの沈没まで、46時間という長時間に及ぶ戦いとなったことであろう。この間に主要な戦闘は5つ行われているが、太平洋戦争の中で、これだけ長時間の海戦になったのは数えるほどしかない。しかも、対戦した艦艇数から考えると異常ともいえる長さであった。これは、戦力に勝る日本軍が「二万五六千米の遠距離砲戦を」継続し、砲や魚雷の命中率が極端に低下し、致命傷を与えるのに時間がかかったことが主な要因といえる[183]。日本軍艦船の命中率の低さは驚くべきものがあり、例えば第五戦隊の重巡那智、羽黒は主砲弾を1艦あたり定数2000発(200発/門)、魚雷を24本搭載していたが、戦闘終了時の残弾数は那智が70発・4本、羽黒が190発・4本とほぼ全弾撃ち尽くしている[184]。これに対して第五戦隊が与えた有効弾と判断されるのは、デ・ロイテル、ジャワ、コルテノールを撃沈した魚雷1本と、ヒューストンに命中した2発(2発とも不発)、デ・ロイテルに命中した1発(不発)、エクセターの缶室に命中した1発程度である。連合艦隊司令部が3月22日におこなった調査によれば、魚雷121本を発射して駆逐艦1隻に1本命中であった[183]。エクセター追撃戦(3月1日昼戦)に参加した妙高、足柄もこの海戦のみの参加でたった3隻(エクセター、エンカウンター、ポープ)を撃沈するだけのために1171発もの砲弾を消費している。艦隊全艦で188本の発射のうち命中したものは僅か4本、命中率2%強という酷いものであった。

砲戦の命中率がこれほどまでに低かったのは、日本軍の技量というよりも両軍の取った戦法にあった。両軍が大遠距離での砲撃戦に終始し、また大角度の避弾運動(非敵側に変針して敵艦の照準を外す運動)を繰り返したことが挙げられる、着弾まで数十秒~数分の時間を要する当時の砲戦ではこうした状況に対する有効な対策がなく、日本軍は射撃教範を墨守していたずらに修正射撃を繰り返した。こうした混乱は本海戦が日本海軍にとって日本海海戦以来37年ぶりの本格的海戦であり、初めての実戦に対する不慣れさや緊張が影響していた[185]。各種情報が集まっていた南方部隊旗艦「愛宕」では、戦果のあがらない砲戦に第二艦隊の参謀達が地団太を踏んでいたという[186]

「那智」の主砲発令所長だった萱嶋浩一氏によれば、司令部は混乱して敵艦の艦名を忘れ、数斉射ごとに目標変換を繰り返して有効弾を得られなかったという。「那智」高射長の大尉も「艦橋はすっかりアガっていた。」、「砲術参謀は落第、肝心なときにどこにいるのか分からなかった。」と証言している。これらの問題について萱嶋氏は回顧録で「無我夢中で撃ち合っているうちになるようになってしまった。」と回想した[187]。 もっとも連合軍艦隊の技倆はそれ以下であり、日本軍は「朝雲」の機関故障のほか殆ど被弾することはなかった。南洋の熱帯地域での長時間の砲撃戦により「羽黒」の弾薬庫要員二名が熱射病となり、この二人が日本軍唯一の死者となった。この海戦の戦訓は後に活かされ、特に1万m以上での魚雷発射は以降の海戦では殆ど見られなくなる。だがレイテ沖海戦におけるサマール沖海戦では、軽巡矢矧(第十戦隊)と同艦に従う第17駆逐隊(浦風、雪風、磯風、野分)が米護衛空母群に遠距離雷撃を実施し、27本発射して1本も命中しなかった。

本海戦における第五戦隊砲術参謀だった末國正雄中佐は戦史叢書に『海戦が終わって考えてみると、演習のときは全軍突撃せよで一応の襲撃行動が終われば演習終結になるのがふつうでありその後の訓練はあまり行なっていなかった。襲撃後の訓練も十分に行なっておかないと、実戦の場合は平常の訓練より力は出ないものであり、敵を撃滅することは困難なものであることを痛感した。』と回想している[103]。 また、このような戦いとなる指揮を取った、高木少将、二水戦の田中少将の戦術指揮は敢闘精神が足りない等と厳しい批判を受けることとなった。宇垣纏連合艦隊参謀長は以下のように評価している[183]

重巡として二萬五六千米の遠距離砲戦を一時間継続し、主砲弾の殆ど全部を使用し盡し、而も敵巡洋艦撃滅の目的を達せず、魚雷亦一二一本を發射し漸く驅逐艦一隻に一本命中せるのみと云ふ。蓋し護衛中の輸送船團籔十隻近在し、優勢なる敵に遭遇せし事とて、勢力保全遠戦主義を取りたりと云ふも何れも初陣の拙劣さを物語るものと謂ふべし。 — 宇垣纒、戦藻録(昭和十七年三月廿二日)

この他にも第一次夜戦において第五戦隊が接近してきたアメリカ海軍の駆逐艦部隊により近距離から雷撃を受けたものの駆逐艦部隊の存在すら気付かず、続いて接近してきたデ・ロイテルら敵主力艦隊を味方艦隊と誤認、正体に気づくも那智及び羽黒の戦闘準備が間に合わず慌てて撤退する・第二次夜戦においてデ・ロイテル、ジャワの轟沈に第五戦隊の司令部及び全艦将兵が万歳を三唱しつつ見惚れていたため、ヒューストン、パースがいなくなったことに気付かずそのまま取り逃がすなど、日本側の指揮の拙さが目立った。

一方で、ドールマン少将の最期まで攻撃態勢を取り続けた敢闘精神に対しては称賛する評価もある。太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥は後年、スラバヤ沖海戦におけるABDA艦隊について以下のように評価した。

ABDA部隊は時をかせぐために使用されたが、この部隊はその犠牲に相当する効果をほとんどあげることができなかった。しかし、逆境にあってこそ人間の否海軍の真価というものははじめて明らかにされるものである。アメリカ海軍の歴史において、圧倒的に優勢な日本艦隊と取り組んだアジア艦隊の行為ほど、立派なものはない。 — C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』40ページ

またモリソン戦史(モリソンの太平洋海戦史)では「勇敢なるドールマン少将は残存艦に対して救助作業をせずバタビヤに避退するよう命令した」とされるが、旗艦「デ・ロイテル」は前述のとおりほぼ轟沈状態で電信が可能だったかは疑わしく、脚色ではないかと言われている[188][189]

いずれにせよ、この海戦によりジャワ近海における連合軍艦船はほぼ壊滅した。また本海戦に於ける3月1日昼戦直前にバタビア沖で生起したバタビア沖海戦により、第二次夜戦で戦場離脱したヒューストン、パースの2巡洋艦は既に撃沈されており[190]、駆逐艦のエヴァンツェンも座礁して放棄された(前述)。2月27日に自沈した水上機母艦ラングレーの乗組員を救助して戦場を離脱しようとしていた駆逐艦エドサル、ホイップル、油槽艦ペコス南雲忠一中将の機動部隊に襲われ、エドサルが戦艦比叡に、ペコスが空母加賀蒼龍艦載機の攻撃で撃沈され、ホイップルは幸運にも脱出に成功した[191]。これによって連合軍艦船は全てジャワ近海から消えることとなり、ジャワ島近海の制海権が完全に日本側に移った。日本軍の上陸作戦はほぼ無傷で行われ、また補給を絶たれた連合軍のオランダ領東インドの維持はほぼ不可能となり、日本軍のジャワ島攻略作戦は3月上旬で完了した[115][192]

露見した問題

この海戦で那智・羽黒・妙高・足柄・神通・那珂が秘密兵器と言われた九三式魚雷(酸素魚雷)を発射したが、殆どが発射直後に水面から飛び出したりしてまともに進まず、さらには自爆も多発し、三月一日の昼戦では一本も命中しないという事態が発生した。この事態に対して、戦闘終了後に詳細な調査が行われた[193]。早爆の最大要因は、爆発尖(魚雷の先端にあり、衝撃で撃針を作動させ火薬を爆発させる装置)が規格はずれの軽い力で働くよう現場(艦の水雷科兵員)で調整されており、このため敵艦に命中する以前に波浪の衝撃で爆発したのである[193]。竹大部員は『帝国海軍軍人の「大和魂」が自爆を起こした主な要因であった。泣いてよいのやら感激してよいのやら、自分にはいまだ分らない』と述べている[193]。九三式魚雷の権威・大八木静雄技術少将も、『爆発尖の感度調整器を各艦に供給したのは、千載の痛恨事である』と回想した[193]。 その他の原因として、開発実験から訓練にいたるまで今まで、艦の速度が30ノットを超える速度での発射を行ったことが無かったため、想定外の34ノットでの魚雷発射を行った結果、水中突入時の蛇行が大きくなりすぎて正常に機能しなかったためであった。もう一つの原因として深度調定(深度設定)を駆逐艦への命中に備えて4メートルと浅くしたことが上げられている。

また、酸素魚雷の自爆は1942年11月14日の第三次ソロモン海戦(夜戦)でも繰り返された。高雄型重巡洋艦愛宕高雄が発射した酸素魚雷がノースカロライナ級戦艦ワシントンの艦首波で自爆したのである。サウスダコタ級戦艦のサウスダコタも雷撃されたが、こちらも1本も命中していない。

敵兵救助作業

2月27日-28日第二次夜戦で第五戦隊 (那智、羽黒)は蘭軍巡洋艦デ・ロイテル、ジャワを撃沈した。2番艦の羽黒は1番艦の那智より『溺者あり救助を乞う』との信号があり救助に向かったところ、それは蘭軍巡洋艦の乗組員だった[194]。『全員救助すべし』の下令により羽黒は約20名を収容、士官達は参謀予備室に収容された[194]

2月28日の朝、二水戦の駆逐艦雪風時津風は、海上を漂流する連合軍の沈没艦船の生存者を発見し、その救助に当たった。雪風はエレクトラの砲術長やデ・ロイテルの通信科の下士官をふくむ40名ほどを救助した[195][196][197]。同日22時、『溺者あり』との信号を受けた二水戦旗艦神通初風に命じ、デ・ロイテルの乗組員など39名を救助させた[198]。第十六駆逐隊の各艦に収容された連合軍将兵は、主に初風によって救助されたが、捕虜となった生存者を纏めて運ぶ役目は雪風に任せられ、後日、バンジェルマシンで病院船に引き渡された[199][197]

同日、第二水雷戦隊・第四水雷戦隊に拘束されたオランダ病院船オプテンノールは前日の戦闘で沈没したデ・ロイテル、ジャワの生存者救助におもむこうとしたが、『生存者は日本海軍によって救助されるはずだ』として拒否された[108]。バウエアン島北方海域に仮泊するよう命じられたが、それを無視してオーストラリアへ向けて航行を開始した[108]。すると水上機母艦千歳の水上偵察機から警告射撃と威嚇爆撃をうける[200]。オプテンノールは移動を諦めた[108]

3月1日午前2時、第五戦隊部隊(那智、羽黒、山風、江風)は哨戒中に軽巡ジャワの生存者を発見、37名が江風に収容された[201]

3月1日昼間の戦闘後、第三艦隊司令長官の高橋伊望中将は、艦隊に海上を漂流中の連合国軍将兵の救助活動を命じ、3隻の駆逐艦が救助にあたった[202]。山風はエクセターの生存者67名を救助した[203]、約100名の捕虜を抱えた第五戦隊は第二艦隊・第三艦隊に指示を仰いだ[204]

午後2時過ぎ、駆逐艦曙が漂流するフォール卿らを発見したが、砲を向けたのみで去った[205]。天津風はオランダ病院船オプテンノールをバンジェルマシンに護送するため単艦行動中だったが、バウエアン島北西部でエクセターの生存者らしき連合軍将兵漂流者多数を発見、『別に救助船がくる』と英語で知らせ、同時に第二水雷戦隊司令部に救助を依頼すると、その場を去った[128]。この後、天津風はオプテンノールをバンジェルマシンへ連行した[108]。オプテンノールは同地(3月9日以降マカッサル)で捕虜収容船となってしまい、オプテンノールの船長は日本軍に「病院船に捕虜を送り込まないでくれ」と抗議している[108]

午後10時頃、雷は漂流していたフォール卿らを発見すると、潜水艦による攻撃といった様々な危険を承知で救助作業に入った。 漂流するイギリス兵は、重傷者の後にエクセター、エンカウンターの両艦長が上がり、その後雷に殺到して一時パニックに陥ったが、ライフジャケットを付けたイギリス青年士官が号令をかけると整然となった。この青年士官は、独力で上がれない者には、雷が差し出したロープをたぐり寄せて身体に巻きつけ、そして「引け」の合図を送り、多くの者を救助していた。救助時、イギリス兵達がライフジャケット等を着用しているのを見て日本兵は大変驚いた[206]。 雷に救助されたイギリス兵達は暖かいもてなしを受けた。艦長伝令の佐々木氏によれば、日本側は貴重な真水や乾パンを彼らに配給したが、イギリス兵たちは必要なだけ取ると日本側へ返却し、佐々木氏を驚かせた[207]。 日も暮れ始める頃にはすっかり両軍の兵士達は打ち解け合ってしまい「艦内軍紀を厳守せよ」との指示が出された[208]

しかし、捕虜の扱いは各艦で異なった。那智での捕虜の扱いは冷淡で、副長の市川重中佐は「甲板士官が、救助した敵兵7名の処遇に困り、夜間、海に突き落としたいと言って何度も自分のもとを訪れた。」と証言している。 加えて、第五水雷戦隊(バタビア方面西部ジャワ攻略部隊護衛隊)は、先任参謀の由川周吉中佐が「敵兵救助に関する指示は、作戦行動指示に忙殺されて出していない」と記述している。 一方、南方作戦全般を指揮した第二艦隊司令部(司令長官近藤信竹中将)は、ジャワ島南方洋上の重巡愛宕艦上にあったが、これも全軍に対し、「敵兵救助」の命令を発した形跡は全く残っていない。高橋中将の第三艦隊は、第五戦隊および第二水雷戦隊に対し、捕虜を駆逐艦にまとめマカッサルに移送するよう下令した[209]。山風は江風達と分離してマカッサルへ向かった[210]

この点電、雷の2駆逐艦は、イギリス滞在歴があり親英的な感覚を持っていた高橋中将の直属かつ単艦行動中だった幸運が重なり、艦長の決断と個性が遺憾なく発揮された[211]。 エンカウンターの将兵を救助した雷駆逐艦長工藤俊作少佐は、英語で「諸君は果敢に戦われた。今、諸君は大日本帝国海軍の大切な賓客である。私はイギリス海軍を尊敬するが、日本に戦いを挑む貴国政府は実におろかである」と挨拶している[212]。「雷」での待遇は良かったが、その後の東南アジアでの捕虜生活は「まあまあ」であったという[213]。 雷の乗組員は、日露戦争蔚山沖海戦ロシア海軍装甲巡洋艦リューリクの乗組員を救助した上村彦之丞中将の気分だったと回想している[214]

雪風の航海士の山崎太喜男少尉は、海軍兵学校時代に英国人教師に英会話を習った経緯から、救助したエレクトラの砲術長のトーマス・スペンサー大尉の訊問を担当した。15時間近く海上を漂流していたスペンサー大尉は雪風で水と食事を与えられ、山崎少尉から着替えと煙草を進められると、故郷スコットランドの思い出など身の上話を語り、その一方で軍事的な質問に対しては黙秘を貫いたが[注 11]、当時の日本軍に浸透していなかったジュネーブ条約のことは詳しく話した。山崎少尉はスペンサー大尉から「英米ではジュネーブ条約によって捕虜の待遇を保証していて、戦争中でも家族との連絡や捕虜交換による帰国が許される」と教えられ、「生きて虜囚の辱めを受ける前に自決する」という考えが常識だった日本軍との違いに驚かされた。連合軍艦艇の捕虜が雪風から病院船に引き渡される際、スペンサー大尉は山崎少尉から餞別の煙草一箱を贈られると、冗談を交わしながら戦後の再会を誓い合った[215]

3月2日、潜水艦との戦闘後に海戦海域に戻った艦隊は、再度高橋中将の命令により救助活動を実施した。2回目の救助活動では妙高、足柄他の艦も漂流者を収容している。那智は約50名を救助したという[216]。『望遠鏡で見ると、どの味方僚艦の後甲板も、救助した捕虜が山積みされ、いまにもこぼれ落ちそうであった。』。その後、海上に漂流者多数を残して参謀長命により救助活動は中止された。救助中止は無電によるものと、足柄の石井勝射撃盤員は推測している[202]

3月3日午前6時半に乗員を涼ませるため浮上していた連合国潜水艦(艦名不詳)へ足柄が高角砲射撃を行い、海に飛び込んだ潜水艦乗員たちを駆逐艦潮が救助した[202]。同日、捕虜100名を乗せた山風はマカッサルに到着した[217]

3月5日セレベス島マカッサルに入港した艦隊は、捕虜を陸軍捕虜収容所のトラックへ引き渡している。港内で足柄の隣だったオランダ病院船オプテンノールの看護婦たちは甲板上の捕虜たちと手を振り合っていた[202]


注釈

  1. ^ 第五戦隊は妙高型重巡洋艦4隻(妙高、那智、足柄、羽黒)で編制されていたが、足柄は太平洋戦争開戦直前の1941年10月10日付で第三艦隊に編入され、同艦隊旗艦となった[22]。また開戦直後の1942年1月4日にダバオ停泊中の妙高がB-17の爆撃により損傷して内地に帰投[23]、しばらく那智(旗艦)と羽黒の2隻で行動していた[24]
  2. ^ 第24駆逐隊の駆逐艦海風は輸送船団護衛を続行し、砲雷撃戦には関与せず。24駆所属の涼風は損傷修理のため不在。
  3. ^ 第9駆逐隊には駆逐艦夏雲が所属するが、同艦は輸送船団護衛に従事しており砲雷撃戦には関与せず。
  4. ^ 妙高の修理は2月19日完了、翌20日に佐世保を出発してスラウェシ島マカッサルにむかった[23]。2月26日、マカッサル到着[25]
  5. ^ 松風は第五水雷戦隊麾下の第5駆逐隊所属だが、28日より龍驤の護衛に派遣されていた[26]
  6. ^ この際アメリカ・イギリス・オーストラリアの士官達がオランダ語を話せない為、ドールマン少将は流暢に話すことができた英語にて説明を行った[29]
  7. ^ 第五戦隊部隊(重巡〈那智、羽黒〉、駆逐艦〈山風、江風、潮、漣〉)、二水戦(軽巡神通、第16駆逐隊〈雪風、時津風、初風、天津風〉)、四水戦(軽巡那珂、第2駆逐隊〈村雨、五月雨、春雨、夕立〉、第9駆逐隊〈朝雲、峯雲〉)。
  8. ^ 第8駆逐隊所属の大潮満潮バリ島沖海戦で損傷し、不在。
  9. ^ 既にシンガポールは陥落しており、マラッカ海峡通過は不可能だった。
  10. ^ 駆逐艦ヴィテ・デ・ヴィットは3月2日、日本軍の空襲により撃沈された。
  11. ^ 同じく雪風に救助されたデ・ロイテルの下士官が軍事的な話も全て喋ってしまったので、スペンサー大尉の黙秘は無駄になった。

出典

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  203. ^ S1703五戦隊日誌(1) p.30〔 尚山風ヲシテ敵駆(H10)[(註)後日山風ノ捕虜トセシハエクセター乗員ニシテ5S指令ノH10ノ乗員ナラザリシコト判明セリ]ノ乗員67名(内士官6)ヲ捕虜トセシメタリ 〕
  204. ^ #5戦隊日誌(2) p.31〔 3-1|(3)1453蘭印部隊指揮官ヨリ ケンタリ ニ回航スベク下令セラル山風江風燃料残額ノ関係上バンジャルマシン経由ノコトトシ戦場ヲ引揚ゲ捕虜ノ処理ニ関シ左ノ通指令ヲ仰グ 3月1日1840(5Sキデ756)発5S司令官宛2F3F参謀長受報大海三部長軍務局長GF参謀長 当隊ケンダリ回航中ナル処3月1日収容ノジャバ乗員三七3月1日午後ノ戦斗直後救助セル英駆H10ノ乗員六七名ノ俘虜ノ処理ニ関シ至急指示ヲ得度 〕
  205. ^ 敵兵を救助せよ!p249
  206. ^ 敵兵を救助せよ!p263
  207. ^ 敵兵を救助せよ!p262
  208. ^ 敵兵を救助せよ!p265
  209. ^ #5戦隊日誌(2) pp.33-34〔 3-2|(略)俘虜ノ処理ニ関スル発受報左ノ通 3月2日0800(3Fキデ582)発3F参謀長宛5S2sd司令官 5S機密第760番電関聯 捕虜ハ駆逐艦1隻ニ収容ノ上「マカツサル」佐聯特陸ニ之ヲ引渡シ同艦ハ「マカツサル」又ハ「バンジャルマシン」ニ於テ補給終了後原隊ニ復帰セシメラル 〕
  210. ^ S1703五戦隊日誌(2) p.35〔 3-3|5S(妙高欠)江風「セレベス」島南方経由「スターリング」湾ニ航行 山風「マカツサル」着収容中ノ俘虜ヲ佐聯特ニ引渡シ同日出港「バンジャルマシン」ニ向フ 〕
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  212. ^ #外交官回想p.82
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  217. ^ #5戦隊日誌(2) p.35〔 3-3|5S(妙高欠)江風「セレベス」島南方経由「スターリング」湾ニ航行 山風「マカツサル」着収容中ノ俘虜ヲ佐聯特ニ引渡シ同日出港「バンジャルマシン」ニ向フ 〕
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  219. ^ “オランダ沈没艦の残骸消える=旧日本軍が撃沈-インドネシア沖”. 時事通信. (2016年11月16日). http://www.jiji.com/jc/article?k=2016111600519&g=int 
  220. ^ “海底の6隻、消えた 旧日本軍撃沈の英・オランダ艦船 インドネシア沖調査”. 朝日新聞. (2016年11月22日). http://www.asahi.com/articles/DA3S12669742.html 






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