ジョセフ・デシェイ アメリカ合衆国下院議員と米英戦争

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ジョセフ・デシェイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 05:48 UTC 版)

アメリカ合衆国下院議員と米英戦争

1807年、6期務めたアメリカ合衆国議会下院議員の最初の任期に、無投票で選出された[14]。有能な演説家として知られていたが、演説の回数は多くなく、「多く考え、あまり喋らないのが」最善だと主張していた[9]第一次アメリカ合衆国国定銀行の認証更新については、投資家の多くが外国人だったので反対した[15]。特にイギリスジョージ3世が大株主であるという事実を心配していた[15]。ジョージ3世は当時発狂の瀬戸際にあると多くの者が考えていた[15]。1811年、結局国定銀行の認証更新は行わないことになった[16]

ヘンリー・クレイ、下院タカ派の指導者

下院議員としての初期には、イギリスとフランスからアメリカの領土を守るために適切な軍隊を保有することを提唱した[9]トーマス・ジェファーソン大統領の1807年通商禁止法と関連する法を支持した[17]。タカ派と見なされており、同じケンタッキー州から選出されで下院議長を務めていたタカ派の指導者ヘンリー・クレイが、第12会期(1811年–1813年)の下院外交関係委員会の委員にデシェイを選んだ[17]。クレイの期待に添い、商船を武装させる法案、アメリカ陸軍正規兵の数を増やす法案、ジェームズ・マディソン大統領が軍務に志願兵部隊を受け入れることを認める法案など、下院に提出された戦争遂行手段を一貫して支持した[17]。メイコンの法案1号には不満を表明し、「イギリスがこのアメリカ大陸でカナダあるいはノバスコシアを保持している」限り、通称禁止も制裁処置全ても失敗すると主張した。ただし、カナダの併合が引き起こす金銭と人的両面の高い費用を認めても居た[18]。1812年6月4日、イギリスに対する宣戦布告に賛成票を投じ、米英戦争が公式に始まることになった[17]

デシェイは議会の会期休会後にケンタッキー州に戻った[17]アッパー・カナダに対するウィリアム・ハリソンの作戦に仕えるために、州知事アイザック・シェルビーによる志願兵の呼びかけに応じた[17]。デシェイは少将に任官され、ケンタッキー州民兵隊第2師団長となった[17]。この3,500名の師団は、第2および第5旅団、第11連隊で構成され、ケンタッキー州ニューポートオハイオ川岸で集結された[17]。この師団はハリソンの軍隊に加わり、1813年10月5日のテムズの戦いでは、デトロイトからイギリス軍の撤退を強制し、イギリスと同盟するインディアンをその左翼で押しとどめて、アメリカ軍の勝利に貢献した[17]。歴史家のベネット・H・ヤングに拠れば、デシェイの昔からの友人ウィリアム・ウィットリーがこの戦闘の前夜に死の予感を感じており、そのライフル銃と薬筒をデシェイに渡して、その愛のメッセージと共にウィットリーの妻に渡してくれるよう頼んだ[8]。ウィットリーは翌日の戦闘で本当に死んだ[8]

デシェイは次の会期でアメリカ合衆国下院議員の務めを再開した[17]。イギリスとの和平を追求することが優先され、アッパー・カナダの併合を追求しないことや、アメリカ人水夫に対するイギリスの強制徴募を無視するという決断に落胆した[17]。戦争を終わらせることになったガン条約には不満だった[17]。1813年遅くから1814年初めにかけて、議会がウィリアム・ハリソンに最高司令官の地位を与えることを検討したとき、デシェイはそれに反対した。なぜなら、ハリソンはテムズの戦いの後でイギリス軍ヘンリー・プロクターの部隊を追撃しないという判断を下し、アイザック・シェルビーの執拗な督促があった後でやっとその判断を下したからだった[19]。議会が北西方面軍の功績に対する感謝決議からハリソンの名前を外し、議会金メダルの授与も保留するという決断を下したのは、デシェイの反対が強い要因だった[19]。ハリソンもシェルビーもデシェイの発言内容を否定し、この問題はデシェイが下院議員に再選される可能性を落としていたので、発言の一部を撤回した[20]。戦闘後にオンタリオのサンドウィッチで開かれた作戦会議でハリソンは追撃に慎重だったと友人の何人かに告げただけであり、追撃に関してハリソンとシェルビーの間に意見の不一致があったか自ら目撃したのではないと主張した[19]

デシェイは下院に戻ってから次第に保守的になり、アメリカ海軍の拡大には一貫して抵抗した[21]。またアメリカ合衆国陸軍長官ジェームズ・モンローが、平時に2万名の常備軍を維持すると要請したことにも反対した[22]。大きな常備軍を維持することは、大きな連邦政府の支持者が増税する言い訳を与えることになると論じ、常備軍は6,000名でよいと提案した[22]。下院では連邦党と民主共和党保守派が連衡し、デシェイの提案を賛成75票、反対65票で可決した[23]。しかし、上院では法案の修正が行われ、常備軍は15,000名を要求した[23]。法案は両院協議会に掛けられ、結局1万名の妥協案が成立した[23]

第14会期(1815年–1817年)では、1816年年金法に反対したことで、12人いたケンタッキー州選出の議員の中で唯一の者となった[24]。この法は同じくケンタッキー州選出リチャード・メンター・ジョンソンが提案したものであり、議会の年金を修正し、議会開会中に「日当」6ドルを支払う代わりに、年俸で一律1,500ドルを支払うというものだった[24]。この案は選挙民の間で著しく不人気だった[24]。法案に賛成したケンタッキー州選出議員は、人気の高かったジョンソンとヘンリー・クレイを除き、次の選挙で議席を失った。彼等は再選を辞退したか、対抗馬に敗れたかのどちらかだった[25]

デシェイは第15会期(1817年–1819年)には公共支出委員会の委員長を務めた[5]。1818年3月14日、サウスカロライナ州選出議員ウィリアム・ラウンズが提案した内国改良の建設資金に連邦予算を割り当てる権限を議会に与える法案に対し、反対票を投じたが少数派になった[26]。デシェイは1818年の選挙には出馬しなかった[5]




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