ジョセフ・デシェイ ケンタッキー州知事

ジョセフ・デシェイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 05:48 UTC 版)

ケンタッキー州知事

ケンタッキー州会議事堂、デシェイが当選して間もなく火事で焼失した

1824年11月4日、デシェイの当選からちょうど1か月後にケンタッキー州会議事堂が火事で焼失した[41]。家具や記録の幾らかは救出されたが、まだ完成して4年しか経っていなかった議事堂が全壊した[41]。1825年にラファイエットがアメリカ合衆国を再訪したとき、新しい議事堂はまだ建設されておらず、また知事公邸は小さくて適当なレセプションを行うには不適だったので、知事はこの賓客をウェイシガーの酒場で接待するしかなかった[42]

デシェイの知事としての功績は内国改良の分野だった[43]。1825年、オハイオ滝の所にルイビル・アンド・ポートランド運河を創設する資金について、議会を説得した[43]。この運河は1830年に開通して非常に有益であることを証明したので、この工事費用を、さらには利益を州と連邦政府、さらに民間投資家の間で分けるようにしたことをデシェイは後悔した[43]。またメイズビルからレキシントンを経てルイビルに居たる有料道路に州が投資することも促進した。州内で舗装道路を建設するために教育予算の過剰分を取っておくことも提案したが、議会はこの提案にあまり反応を示さなかった[44]

旧裁判所対新裁判所論争

ケンタッキー州の歴史家トマス・D・クラークは、デシェイが「破産した有権者の群れを救済するために軽率な約束をし、...その約束を実行するしかなくなった」と記している[45]。議会に対するデシェイの最初の演説は、概して司法府、特にアメリカ合衆国最高裁判所に対する批判だった。最高裁は「グリーン対ビドル事件」の判決で、ケンタッキーが州になる以前にケンタッキー地区でバージニア州が認めた土地の権利は、後にケンタッキー州が認めた土地権利と異なる場合に、バージニア州の方が優先すると裁定したばかりだった[46]。デシェイの司法府に対する強硬姿勢に力を得た救済派は、以前に債務者救済法について違憲の判断を下した控訴裁判所判事の排除に取りかかった[29]。反抗的な判事に対して提案された最初の懲罰手段は、年給で25セントまで減給することだったが、このやり方は直ぐに止められた[29]。次ぎに議会は判事達を名指しで排除しようとしたが、この排除を有効にするために必要な両院の3分の2以上を確保していないことに気付いた[47]

最終的に1824年12月9日、ケンタッキー州上院はケンタッキー州控訴裁判所を創設した法を撤廃し、州内に新しい最終審を設立する手段を通した[48]。この法案は下院に送られ、12月23日まで活発な議論が続いた[49]。深夜まで続いた議論中に、デシェイが議場に現れて、議員達に法案を支持するよう訴え、議論を終わらせるために実際に先決問題を排除させた。これは、ケンタッキー州の歴史家ローウェル・H・ハリソンの言葉を借りれば、「下院規則の目に余る違反」だった[49][50][51]。下院は賛成54票、反対43票で法案を通し、デシェイが即座に署名して法制化した[50]

州務長官ウィリアム・T・バリー、新裁判所の長官にデシェイが選んだ人物

1825年1月20日、デシェイは新裁判所判事に4人を指名した[52]。州務長官で元アメリカ合衆国上院議員のウィリアム・T・バリーを新裁判所の長官に選んだ[52]。他の3人はレキシントンの弁護士ジェイムズ・ハギン、巡回裁判所判事ジョン・トリンブル(最高裁判事ロバート・トリンブルの兄弟)、ベンジャミン・パットンだった[53]。中傷者が「デシェイの裁判所」と呼んだこの新裁判所判事の中で、歴史家のスティックルズはバリーが「旧裁判所判事と同じくらい法学者として経験、名声、能力を見せる手段を持っていた唯一の者に見える」としていた[54]。旧裁判所事務官アキレス・スニードは新裁判所事務官フランシス・P・ブレアへの裁判記録引き渡しを拒んだので、ブレアは力ずくでスニードの事務所から記録を持ち出した。スニードは協力を拒んだので、法廷侮辱罪として10ポンドを科料された[49]。旧裁判所はフランクフォートの教会で事件の審問を続け、一方新裁判所が公式の裁判所を占有した[49]。どちらも互いを認知せず、どちらも州の最終審である合法性を主張した[49]。州内の弁護士や判事の大半は旧裁判所の支持者であり、彼等の前で実務を続け、その規則を遵守したが、新裁判所を合法のものとして認めることを選ぶ者もいた[55]

デシェイとその閣僚全体で、1825年の州議会選挙には新裁判所候補のために選挙運動を行ったが、旧裁判所支持派が下院の多数となり、上院では新旧両派支持者が拮抗する結果になった[49][56]。新しく招集された議会に対するデシェイのメッセージはこのときも銀行と司法への批判のままだったが、裁判所問題に妥協案を求めるよう議会に促すことになった[57]。スティックルズは、たとえ新裁判所党派にとって面目を保つことになったとしても、デシェイが妥協を望む姿勢は誠実だったと記録している[58]。議会が再度新しい判事団の指名を承認することになったとしても、デシェイは平等に両陣営から指名することになると約束していた[59]。これとは別に判事の数を6人にして、両派から3人ずつ指名するという案もあった[60]。ある議員は両裁判所の全判事が辞任し、それと共にデシェイ、副知事のロバート・B・マカフィ、議会の全議員も辞任し、州政府自体を基本的にリセットする案を提案した[49]。この案は下院を通過したが、上院で握りつぶされた[49]。下院は旧裁判所を再度認証する方法を成立させたが、上院では賛否同数となり、上院議長であるマカフィが反対票を投じて決着した[49]。こうした中で1825年11月7日、この論争に関わりがあると言われたビーチャム=シャープの悲劇と呼ばれた事件が起き、1826年にビーチャムが処刑された。

1826年までに州内の経済環境は著しく改善された[49]。その結果、旧裁判所支持派の急速な高まりをみた新裁判所判事のうち2人が辞任した[61]。デシェイは新たに3人の指名を提案したが、その3人とも無視するか拒絶した[61]。最終的に1826年4月にジョン・テレマカス・ジョンソンが指名を受け入れ、1826年の任期では3人の判事だけで新裁判所が運営された[61]。同年8月の選挙で、旧裁判所派が下院で56対44、上院で22対16とどちらも多数派になった[62]。裁判所問題の行き詰まりを打開するために、デシェイは再度議会に妥協案の成立を促した[62]。しかし、両院で旧裁判所派が多数であるので、断固として新裁判所を否定し、旧裁判所を回復し、新裁判所に関する法全てを撤廃する法案を通した[49]。デシェイはこの法案に拒否権を使い、妥協案ではなく露骨に党派に偏った法案を通したことで議員を叱責した[63]。1827年1月1日、議会はデシェイの拒否権を差し戻した[49]。和解の動きの中で上院は新裁判所派であるジョージ・M・ビブに対するデシェイの指名を確認した。これは回復された旧裁判所の判事ジョン・ボイルが1826年11月に連邦裁判所判事の指名を受け入れて辞任してできた空席への指名だった[64]

アイザック・デシェイの恩赦

ジョン・ローワン上院議員、デシェイの息子の殺人事件公判を弁護した

デシェイは息子に恩赦を出したことでその評判をさらに悪化させた。1824年11月2日、アイザック・B・デシェイがケンタッキー州を訪れていたミシシッピ州人フランシス・ベイカーを残忍に殺害した。11月24日、議会におけるデシェイの支持者ジョン・ローワン上院議員が、フレミング郡巡回裁判所に対し、1825年1月17日に特別会期を招集するよう命令を出す法案を提出した。これはアイザック・デシェイの公判のためであり、同時に被告が裁判地をハリソン郡に変更する要請を選択できるようにするためのものだった[65][66]。ハリソン郡は殺人現場から遠く離れているが、デシェイの出身郡であり、そこの役人達には大きな影響力を持っていた[41]。11月26日に開催されたこの法案を検討するための議員委員会にデシェイ知事が出席し、議会全体に都合良く報告するよう求めた[65]。委員会がその通りに行い、法案は12月4日に承認された[65]

12月に行われた公判でアイザック・デシェイは裁判地の変更を要請した。この事件はハリソン郡に移管され、1月初旬に開廷されることになった[65]。ジョン・トリンブルがこの事件を審問することになったが、デシェイ知事は1824年遅くに旧裁判所を「廃止」したことに伴い、トリンブルを新控訴裁判所の判事に指名していた[67]。トリンブルは自らレキシントンのジョージー・シャノン判事に訴えてこの事件を審問するよう要請した[68]。デシェイ知事は息子のために手強い弁護団を集めた。新しく州務長官に指名したウィリアム・T・バリー、アメリカ合衆国上院議員に選出されたばかりのジョン・ローワン、元下院議員のウィリアム・ブラウンとT・P・トールだった[69]。ウィリアム・K・ウォールと後のアメリカ合衆国下院議員ジョン・チェンバーズ、ハリソン郡とフレミング郡それぞれの州検察官が検事のマーティン・P・マーシャルと共同し、事件の告発にあたった[69]。デシェイ知事は公判の度に出席し、弁護人と同席した[70]

父のデシェイが都合の良い裁判地、判事、弁護団を手配して最善を尽くしたにも拘わらず、1825年1月31日、陪審員はアイザック・デシェイを殺人罪で有罪とし、絞首刑を宣告した[41][71]。ローワンは即座に陪審員の干渉を根拠に新たな裁判を要求し、シャノンは2月10日にこの要請を認めた[68]。陪審員の選任が問題となり、ハリソン郡巡回裁判所開廷期の少なくとも4期を消費することになった[72]。1825年9月、陪審名簿が最終決定した[72]。判事はハリー・O・ブラウンであり、空席を埋めるためにデシェイ知事が一時的指名した者だった[73][74]。息子のデシェイは再度有罪となり、1826年7月14日に絞首刑に処すると宣告された[75]。ブラウン判事は、デシェイに対する起訴状にあるように、殺人がフレミングで起こったことを検察は証明していなかったので、判決を破棄した[73][74]。検察は裁判地の変更が既に行われていたのでこれは全く重大でないと論じたが、判事の裁定が通り、デシェイ知事の評判は新たな打撃を受けることになった[73]

1826年7月、アイザック・デシェイは3回目の裁判を待っている間に保釈金を払って保釈された状態にあり、明らかに興奮した状態にあったが、自分の喉を切って自殺を図った[73][74]。医者が切断された気管を銀の管で再接合して一命を取り留めた[73]。アイザックは快復し、1827年6月に3度目の裁判に臨んだ[74]。6月の開廷期に、デシェイの弁護団は多くの専断的忌避を行使し、再度陪審員の名簿作りをできないようにした[73]。判事は次の開廷期までアイザックを保釈無しに拘束すると命令したが、この手続きに同席していたデシェイ知事が立ち上がり、息子に恩赦を与えると共に、判事を長々しい弁舌で非難した[73]。幾つかの証言に拠れば知事は恩赦を認めたことで即座に辞職したが、公式の記録にはそのような行動が記録されていない[75]

アイザック・デシェイは釈放された後、偽名でテキサス州に旅し、そこで強盗を行い、別の男を殺した[73]。家族的類似および以前に彼の命を救った銀の管でアイザックと同定された[73]。アイザックは逮捕された後に、2つの殺人を自白した[73]。1828年8月、公判を前にした日にアイザックは熱病で死んだ[76]

ホレス・ホリーとの紛争

ホレス・ホリー、デシェイからの非難故にトランシルベニア大学学長の座を追われた

デシェイの知事就任中におきたもう一つの問題は、トランシルベニア大学学長ホレス・ホリーを拒絶したことだった。ホリーが1818年に学長に就任した時から、大学は全国的に著名になり、コンスタンティン・サミュエル・ラフィネスク、ダニエル・ドレイク、チャールズ・コールドウェル、ウィリアム・T・バリー、ジェシー・ブレッドソーなど、質が高く尊敬される教授陣を惹き付けてきた[77]。しかし、ホリーがニューイングランドユニタリアンを信奉していることで、多くのケンタッキー人にとってはあまりにリベラルだった[1]。多くの者がホリーを異端者だと言い、大酒飲みで賭け事好きだと非難した[78]。競馬で時間を過ごし、家にはヌードの古典的な彫像を置いていると批判された[79]

1824年アメリカ合衆国大統領選挙の時に、デシェイはホリー論争に引き込まれた[80]。一般選挙ではどの候補者も過半数を制することができず、決着はアメリカ合衆国下院に持ち込まれた。デシェイとケンタッキー州議会の新裁判所派は、州選出の代議員にアンドリュー・ジャクソンに投票するよう指示したが、下院議長ヘンリー・クレイが率いた代議員団はこの指示を否定し、ジョン・クィンシー・アダムズに投票した[80]。このことで、トランシルベニア大学理事でありホリーの支持者でもあるクレイがデシェイの政敵になった[80]。アイザック・デシェイの裁判の後で、トランシルベニア大学の学生が大学の礼拝堂で知事を批判する演説を行ったことで、大学とホリーに対するデシェイの敵対心が悪化していった[41]。ホリーはその演説の現場に居合わせたが、トランシルベニア大学の歴史家ジョン・D・ライト・ジュニアは、ホリーが前もってその学生の演題を知ってはおらず、それを聞いた後も内容を正すような動きがなかった、と記していた[81]。しかし、学生が政治的にどのような立場を採ろうと、同時代の政治問題について率直に語るのを認めるのがホリーのやり方だった[81]。ホリーが学生を制止しなかったために、州の最高行政官を無礼にも批判しているのを、それとなく認めた落ち度があるとデシェイは主張した[82]

1825年11月、デシェイは議会に対する教書演説でトランシルベニア大学とホリーを攻撃した[81]。大学は前年の議会で割り当てられた公的資金を賢明に利用していないと主張し、特にホリーの学長としての給与はデシェイより高いと述べた[81]。デシェイは最後に、ホリーが指導するトランシルベニア大学はあまりにエリート主義となってきており、学費が高いために他のものには成り得ないと主張した[78][81]。デシェイや議会と話すためにフランクフォートにきたホリーは、デシェイの演説のときに出席していた[83]。ホリーはその後で、レキシントンに戻る代わりに、辞表を提出した[83]。大学理事会でホリーに同調する理事達はもう一年学長として留まるよう説得した[84]。ケンタッキー州の歴史家ジェイムズ・クロッターは、ホリーが辞職したことで「おそらく世界的な大学となる最大のチャンスが無くなった」と述べていた[79]

知事としての遺産と引き継ぎ

ジョージタウン墓地にあるデシェイとその妻の墓

デシェイの知事としての任期中におきた多くの論争がその評判を著しく傷つけた[85]。歴史家のハリソンは、1825年にケンタッキー州を訪れた者が、「(デシェイは)才能があると言う人がいるが、私はその証拠にお目に掛かったことが無い」と言ったと記録している[85]。ハリソンはさらに、「1828年までにケンタッキー州民の多くはその評価に同意するようになっていた」とも述べていた[85]

デシェイはその後継者として民主共和党候補のウィリアム・T・バリーを支持した[4]。選挙戦初期の判断では国民共和党候補トマス・メトカーフに対してバリーがリードしていたが、最後はメトカーフが当選した[86]。デシェイはメトカーフと政治的に一致するものが無かっただけでなく、知事という者は高貴に生まれた者であるべきと考えていた[4]。メトカーフはアメリカ独立戦争の軍人の息子だったが、ニックネームの「古い石鎚」が示す通り、石工としてのプライドを示していた。当時石工は平民の職業と考えられていた[4]

憲法条文の曖昧さのために、メトカーフの任期はデシェイの任期が開ける8日前に始まることになっていた[87]。デシェイは自分の任期を終わらせるようにしないと言ってメトカーフを非難し、公式の任期が終わるまで知事公舎を明け渡さないと脅した[87]。歴史家のクラークは、メトカーフと支持者数人が土地の酒場でしこたま飲んだ後で暴徒となり、知事公舎に向かって力ずくでデシェイを立ち退かせたという伝説を記録している[87]。当時の地元新聞に掲載された証言では、デシェイがメトカーフによる妨害もなく、平和的に公舎を後にしたと報じている[86]




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