キネトスコープ 映写機の導入

キネトスコープ

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映写機の導入

キネトスコープの衰退

1895年にアルフレッド・クラークが製作したキネトスコープ用作品『メアリー女王の処刑』は、最初に特殊効果が行われた作品で、ストップ・アクションを使用して処刑の様子を再現している[36]

1895年の初め、キネトスコープとフィルムの売上げが落ち込み、エジソン社の映画事業は厳しくなり始めた。新作映画は独創性を欠き、後述するキネトフォンの試みも失敗した[83]。そうした時に多くの関係者は、フィルム映写がエジソンの追求すべき次のステップであると考えていた。キネトスコープ社を経営するラフとガモンも、エジソンに映写機を作るように催促した[84]。しかし、エジソンはラフとガモンの要求に対して次のように答えた。

もし映写機を作るとすれば、私たちはすべてを台無しにしてしまうだろう。私たちは現に覗き眼鏡式の器械を作り、大量に販売して満足すべき利益を得ている。もし、映写機を私たちが売り出したとしても、おそらく合衆国で10台そこそこが売れればいいところだ。国中で私たちの映像を見せるのに数台もあれば十分だ。だから、諸君は金の卵を生む鶏を殺してしまうことになる[85]

エジソンは経済的な理由でキネトスコープに固執したが、ディクソンは意見を異にし、フィルム映写の可能性を確信していた[86]。ディクソンはエジソン社総支配人のウィリアム・ギルモアと不和を募らせていたこともあり、同じく映写機を求めるレイサム兄弟に密かに技術を提供していた[71][83]。結局、同年4月にディクソンはエジソン社を退社した。その後はハイスが新作映画を作っていたが、8月にラフとガモンは従業員のアルフレッド・クラーク英語版にフィルムの販売を刺激する映画を作るように指示し、クラークは『メアリー女王の処刑』など数本の歴史的題材の作品を手がけた。それでも売上げは落ち続け、やがてクラークは映画製作から手を引いた[83]。秋までにキネトスコープの人気は衰退し、映画製作もしばらく中止することになった[87]。キネトスコープの商品化2年目で、売上高は前年と比べて95%も減少し、わずか4000ドルとなった[88]

ヴァイタスコープの導入以後

1900年代の映写式キネトスコープの広告。

1895年の間、欧米ではキネトスコープの公開をきっかけにして多くの映写機が開発された。レイサム兄弟と協力したディクソンは、4月にパントプティコン英語版を共同開発し、5月20日にニューヨークで商業上映を始めた[89]。その後、ディクソンはエジソン社の主要な競争相手となるアメリカン・ミュートスコープ社英語版の設立に参加した[83]。同社が発売したのぞき穴式装置ミュートスコープは、キネトスコープよりも安価で良質なため、すぐにそれを上回る人気を獲得した[90]。アメリカの発明家トーマス・アーマットチャールズ・フランシス・ジェンキンス英語版ファントスコープ英語版を開発し、9月にアトランタでキネトスコープ用作品を映写した[36][91]。ヨーロッパでは、フランスのリュミエール兄弟シネマトグラフ、ドイツのスクラダノフスキー兄弟ドイツ語版ビオスコープを開発し、それぞれ商業上映を行っていた。

キネトスコープに固執したエジソンも、最終的にラフとガモンの要求に応じ、助手のチャールズ・H・カイザーに映写機の研究を行わせたが、カイザーはこの問題を進展させることができなかった[84][92]1896年1月、エジソンはラフとガモンを通じてアーマットからファントスコープの特許権を購入し、それを「ヴァイタスコープ」に改名して映写機を導入した。ヴァイタスコープはエジソンの発明品ではないが、ラフとガモンにより商業的価値を高めるために「エジソンのヴァイタスコープ」として商品化された[90][92]。ヴァイタスコープは最初は人気を呼んたが、すぐに国内外の競合相手による安価で良質な映写機が市場にあふれたこともあり、同年秋までに商業的に失敗した[39][93]

その後、エジソンはキネトスコープの名称を使用した自身の映写機を開発した。1897年2月に「映写式キネトスコープ(プロジェクトスコープ)」を発売し、1900年代にかけて改良を施した映写式キネトスコープが何度も販売された[39][94]1911年末には家庭や教会などで使用するための「家庭用映写式キネトスコープ」を発売した。フィルムの幅は21ミリで、その幅に5.7ミリのフレームが3つ並ぶという特殊な形をしていた。しかし、独自のフォーマットのために上映作品が限られ、技術的欠陥にも悩まされたため、特に人気が出ることはなかった[95][96]1915年には「スーパー・キネトスコープ」の開発も試みられたが、製造費があまりにも高くなるため中止となり、これがエジソンの最後の映画装置となった[95]


注釈

  1. ^ 研究家のゴードン・ヘンドリックスによると、シャッターはレンズとフィルムの間に付いていたという[7]
  2. ^ 特許保護願は、将来特許を申請する発明について事前に通知する法的文書のことである[14]
  3. ^ 被写体の従業員について、1889年6月説ではフレッド・オット、1890年11月説ではG・サッコ・アルバニーズフランス語版とされている[19]
  4. ^ エジソンのパリ出発の日付について、映画史家のデヴィッド・ロビンソンは8月2日[20]、ゴードン・ヘンドリックスは8月3日としている[21]
  5. ^ ディクソンによると、それまではカーバットから供給されたセルロイドシートをストリップ状に切断して使用していたが、カーバットのシートは重くて硬い素材だったためストリップ式には向かなかったという[18][25]。イーストマンによると、フィルムの発売直前の8月24日にディクソンに一巻のロール・フィルムを送ったという[25]
  6. ^ 1896年にエジソンが映写機のヴァイタスコープを販売すると、ブレア・カメラ社のフィルムが映写に適していないことが分かり、フィルムの供給先をイーストマン社に切り替えている[39]
  7. ^ この作品の原題は『インペリアル・ジャパニーズ・ダンス』で、1894年10月から11月に撮影された[63]。被写体である芸妓の正体について、映画史家の田中純一郎は、1893年のシカゴ万博に日本から出店した茶店の接待係として派遣された祇園の芸妓であるとしている[65]。一方、岩本憲児は、関西の舞妓という触れ込みでシカゴ万博で踊るために派遣され、アメリカの劇場で『ミカド』に出演した日本人であるとしている[66]
  8. ^ 映画史家の田中純一郎によると、ニーテスコップの呼称は「Kinetoscope」の頭文字”K”をサイレントと誤読して発音したものだという[100]
  9. ^ 岩本は、それぞれの作品の原題について、『西洋人スペンサー銃ヲ以テ射撃ノ図』は『Buffalo Bill』、『同 縄使用別ケノ図』は『Vincente Ore Passo』、『同旅館ニテトランプ遊戯ノ図』は不明、『京都祇園新地芸妓三人晒布舞ノ図』は『Imperial Japanese Dance(インペリアル・ジャパニーズ・ダンス)』、『悪徒死刑ノ図』は『The Execution of Mary, Queen of Scots(メアリー女王の処刑)』と推測している[103]
  10. ^ 岩本は、『米国都府ニ於テ馬車ト自転車競走ノ図』の原題は『Parade of Bicyclists at Brooklyn, New York』と推測している[103]

出典

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