エルツェン エルツェンの概要

エルツェン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/01 08:43 UTC 版)

紋章 地図
(郡の位置)
基本情報
連邦州: ニーダーザクセン州
郡: ハーメルン=ピルモント郡
緯度経度: 北緯52度02分58秒 東経09度15分55秒 / 北緯52.04944度 東経9.26528度 / 52.04944; 9.26528座標: 北緯52度02分58秒 東経09度15分55秒 / 北緯52.04944度 東経9.26528度 / 52.04944; 9.26528
標高: 海抜 173 m
面積: 105.26 km2
人口:
人口密度: 99 人/km2
郵便番号: 31855
市外局番: 05154, 05158, 05262
ナンバープレート: HM
自治体コード:

03 2 52 001

行政庁舎の住所: Kirchplatz 2
31855 Aerzen
ウェブサイト: www.aerzen.de
首長: アンドレアス・ヴィットロック (Andreas Wittrock)
郡内の位置
地図

エルツェンドイツ語: Aerzen)は、ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州ハーメルン=ピルモント郡に属すフレッケン(フレッケンとは、古くから市場の開催権など一定の自治権を認められた町、以下、本項では便宜上「町」と記述する)である。同州南部に位置し、ノルトライン=ヴェストファーレン州と境を接している。

地理

位置

この市場町は、ヴェーザーベルクラント地方にあり、郡庁所在都市ハーメルンから南西約10km、バート・ピルモントから北に約7kmのフンメ渓谷に位置する。エルツェン地区の北にリュニングスベルク、南にはシーアホルツベルクおよびピルモンターベルクという山がある。東西にフンメ川が流れ、町の中心部でギーセバッハ川がフンメ川に合流する。

隣接する市町村

この町に隣接する市町村は、ヘッシシュ・オルデンドルフハーメルンエンマータールバート・ピルモント、さらにノルトライン=ヴェストファーレン州バルントルプおよびエクスタータールである。

町の構成

自治体としてのエルツェンは、中核地区のエルツェンの他、アホルン、デームケ、デームカーブロック、エーデンハル、エッゲ、ゲラーゼン、グリーセム、グロース・ベルケル、グルーペンハーゲン、ヘルケンドルフ、ケーニヒスフェルデ、ラーツェン、ムルトヘーペン、レーアー、ライネ、ライナーベック、ローデンベック、シェーフェルシュタイン、ゼルクセン、ヴェルデホルツの各集落からなる。

歴史

この市場町は、市町村再編の一環として1973年1月1日に上記の村落が合併して成立した。

元々アムト・エルツェン(ここでのアムトは村落の集合体を意味する)は、同名の領主家に由来する。1178年にエルツェン家は断絶し、その所領はエーファーシュタイン伯家のアルブレヒト3世(アルベルト3世)[2]ものとなった。14世紀中頃のエーファーシュタイン家の穀物台帳によれば、エルツェンは13の集落からなる行政管理区の中心地となっていた。ハインリヒ獅子公の失墜後、ヴェルフ家はしばらく息を潜めながら、ホーエンシュタウフェン家に対抗してエーファーシュタイン家と戦った。1260年、ヴェルフ家のアルブレヒト1世はエーファーシュタイン家の討伐を開始し、次々とエーファーシュタイン家の支配下の各城を攻略した。1283年にコンラート4世(1243年 - 1283年)はケルン大司教ジークフリートに援助を求め、エルツェンに招いた。しかしこの司教もヴェルフ家のハインリヒ1世(アルブレヒト1世の子)によるエーファーシュタイン城奪取を阻むことはできなかった。

歳月は流れて、ヴェルフ家のベルンハルト1世は攻勢を強め、エーファーシュタイン伯ヘルマン7世(1374年 - 1413年)は、自領をブラウンシュヴァイク=リューネブルク公から護るための相続契約をパーダーボルン司教およびリッペ伯と結んだ。この両相続人は、ヘルマン7世夫人イルムガルト・フォン・エーファーシュタインがエルツェン城を隠居所として保持することを認めた。この相互防衛同盟はエーファーシュタイン領継承戦争を引き起こすこととなった。その過程でヴェルフ家はリッペ領を広く蚕食した。1408年に和平条約が締結された。ヘルマン7世は、わずか4歳(あるいは2歳)の娘エリーザベトとベルンハルト1世の子オットー4世不自由公との結婚を約束し(1425年に結婚した)、エルツェンはその持参領とされた。こうしてヴェルフ家はエーファーシュタイン伯とブラウンシュヴァイク=リューネブルクとの間の関係構築に成功した。

ヴェルフ家は1433年にエルツェンを担保としてヒルデスハイム司教に供した。1508年にはこの抵当権はシュタティウス・フォン・ミュンヒハウゼンとハインリヒ・フォン・ハルデンベルクが所有していた。9年後、ヒルデスハイム司教はハルデンベルクとの賃借契約を更新せず、これによりエルツェンは両占有者間の争いの場となった。ミュンヒハウゼンは逃走したのだが、ヒルデスハイムを目前にハインリヒ・フォン・ハルデンベルクによって殺害された。その死によりヒルデスハイム司教領のフェーデはより深刻なものとなった。1553年、カレンベルク=ゲッティンゲン侯エーリヒ公はヒルデスハイム司教からアムト・エルツェンを取り上げ、4階建ての政庁を建設した。

1714年の書物に描かれたシュヴェッバー城

殺害されたシュタティウス・フォン・ミュンヒハウゼンの末子で傭兵隊長のヒルマー・フォン・ミュンヒハウゼン(1512年 - 1573年)は1573年までエルツェンを担保として占有した。ヒルマーは、当時最も裕福だった人物の一人で、1561年に政庁に長さ 50 m、高さ 16 m の十分の一税倉庫を建設した。この倉庫は1980年にクロッペンブルク博物館村に復元された。また、1570年にはハーメルンの建築家コルト・テニスにシュヴェッバーに三翼構造の城館を建設するよう依頼した。1593年ハインリヒ・ユリウス公は館とアムトをヒルマー(上記ヒルマーの子)に相続させた。ヒルマー(子)は1617年にシュヴェッバーで亡くなり、エルツェンのマリエン教会に葬られた。

その息子のベリースは抵当権を継承したが、1630年にヒルデスハイム司教の勢力が彼を武力によって駆逐した。スウェーデン王グスタフ・アドルフがドイツに上陸し、復旧勅令が取り消された後にベリースはこの担保領の奪回に成功した。1642年に2度目の打撃が彼を襲った。ヴァイマール騎兵がこの町に火をかけると脅迫してきたのである。ベリースは、金の鎖1本を残して全財産を失った。古い館の銘には、この夜66軒の家屋、城館、学校、多くの納屋や倉が焼失したと記されている。1660年にミュンヒハウゼン家は160年以上に及んだエルツェンの抵当権を永久に失った。政庁は国有財産となった。官僚や書記達は引き続き19世紀半ばまで行政・司法を司っていた。1823年にアムト・エルツェンは解体されたが、区裁判所(アムト裁判所)の管区として1854年に再建されたが、1858年には再び廃止された。1864年、アドルフ・マイヤーが Aerzener Maschinenfabrik を設立した。この会社は1907年からGmbH(有限会社に相当する)を称号とし、ロータリー機械製品や後にはディーゼルエンジン過給器を生産した。




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