エチオピア戦争とは? わかりやすく解説

エチオピア‐せんそう〔‐センサウ〕【エチオピア戦争】

読み方:えちおぴあせんそう

イタリアエチオピア侵略した2回の戦争第一次(1895〜96)ではエチオピア撃退されたが、ファシスト政権下の第二次(1935〜36)の侵略エチオピア併合アビシニア戦争


エチオピア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/16 15:22 UTC 版)

1912年の欧州列強によるアフリカ植民地化。黄緑がイタリア領
エチオピアとイタリア領東アフリカ
エチオピア皇帝メネリク2世

エチオピア戦争(エチオピアせんそう)とは、エチオピア帝国イタリア王国が数度に渡り行った戦争。

一覧

以下の二つがある。

  1. 第一次エチオピア戦争1889年 - 1896年
  2. 第二次エチオピア戦争1935年 - 1941年

第一次エチオピア戦争

ヨーロッパ列強国によるアフリカの植民地化(アフリカ分割)が進む中、19世紀後半、イタリアはエチオピアに介入を始め、1885年に占領し、1889年、ウッチャリ条約によりエチオピアはエリトリアをイタリアの支配に委ねた。

また、同年、隣国ソマリアがイタリア領となった(イタリア領ソマリランド)。独立国エチオピアへの植民を狙うイタリアはメネリク2世の帝位襲名を支援することで、間接的にエチオピアに影響力を行使することを計画していた。そのため、現地には1万人前後の兵士しか派遣されていなかったが、これを好機と見たメネリク2世はイタリアとの協定を破棄して開戦した。単に数で上回れるだけでなく、陸軍がフランスの支援で高度な近代化を成し遂げていたのも大きな要因であった。

遠征軍の指揮官であるオレステ・バラティエーリはエチオピア軍がフランス式の大砲や機関銃で武装していることを知ると、本国に本格的な派兵を要請した。しかしアフリカ人相手の戦争と侮っていた(これは他の欧州諸国にも通ずる偏見である)フランチェスコ・クリスピ首相は増援を拒絶し、速やかな決戦を命じた。

アドワの戦いでエチオピア軍15万とイタリア軍1万が衝突する。イタリア軍側は各所で包囲されながらも抵抗しエチオピア軍に10000名の損害を与えたが、自らも8000名の兵士を失って敗北した。

終結後の1906年にはエチオピアに関する英仏伊三国協定が結ばれ、エチオピアにおける三国の利益保護のために協力することなどが決められたが、1925年にベニート・ムッソリーニがイタリア首相に就任すると翌1926年には英伊二国間でエチオピアにおける利益に関する協定が結ばれた[1]。こうした動きがエチオピアの反発を招くのは必至だった。エリトリヤ、ソマリランド間の連絡を図るためエチオピア領を通る鉄道敷設を計画していたイタリアは、1928年にエチオピアと友好条約を結ぶも両国間の関係は悪化していった。

1930年頃よりイタリアがエチオピア領のワルワルに侵食し始めたことから小競り合いが起こり、欧州列強からの圧迫もあって両国は1934年9月に友好不侵略の協同宣言を発表したもののイタリアの挑発は止まず、同年12月、エチオピアはイタリアを相手取って国際連盟理事会に提訴したが[2]、解決をみなかった[3]。1935年2月、イタリアはエチオピア国境に3万人の師団を動員、エチオピア政府は再度国際連盟に提訴し、在伊エチオピア公使は戦争の覚悟を表明した[4]

第二次エチオピア戦争

領土拡大を図るイタリアはドゥーチェムッソリーニの指導の下、国境紛争を口実に再びエチオピアに侵攻した。

数十年の間に近代的装備を失いつつあったエチオピア軍に圧勝し、皇帝ハイレ・セラシエ1世は亡命してイタリア国王がエチオピア皇帝を兼任した。

1941年、イギリス軍がイタリア軍を駆逐するとハイレ・セラシエが帰国し、軍の近代化を進めることとなる。

脚注

関連項目




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