イニーアス・マッキントッシュ イニーアス・マッキントッシュの概要

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イニーアス・マッキントッシュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 17:48 UTC 版)

イニーアス・ライオネル・アクトン・マッキントッシュ
生誕Aeneas Lionel Acton Mackintosh
(1879-07-01) 1879年7月1日
イギリス領インド帝国ベンガル・プレジデンシー、ティアハット
(現在のインドビハール州
死没1916年5月8日(1916-05-08)(36歳)
南極、マクマード入江
教育ベッドフォード・モダーン・スクール
職業イギリス商船海軍士官、南極探検家
配偶者グラディス(旧姓キャンベル)
子供パメラ=アイリーン・マッキントッシュ、グラディス=エリザベス・マッキントッシュ
アレクサンダー・マッキントッシュ、アニー・マッキントッシュ

マッキントッシュにとって初めての南極体験は、1907年から1909年にかけて二等航海士として参加したシャクルトンのニムロド遠征だった。南極大陸に到着してまもなく、マッキントッシュは船上の事故で右目を失ってニュージーランドに送り返されるも、1909年には遠征の後半に参加するために復帰した。逆境に立ち向かう意思と覚悟がシャクルトンの感銘を呼び、1914年のロス海支隊への参加につながった。

マッキントッシュが率いるロス海支隊は、南極で多くの問題に直面した。シャクルトンからの指示が紛らわしく曖昧であったため、マッキントッシュは本隊の確かな行進日程がわからない状態で行動した。また、隊の船であるオーロラ号が、上陸部隊に必要な機材や物資を船上に残したまま大風によって係留地から吹き流されて戻れなくなり、問題はいっそう深刻化した。補給所設置の任務で1人の隊員が死亡し、マッキントッシュ自身は絶体絶命の局面を仲間の助けによって救出され、一時はかろうじて生き延びた。しかし、体力を回復したのち、マッキントッシュは仲間の1人を伴い、不安定な海氷の上を渡って支隊のベースキャンプに戻ろうとして、そのまま行方が分からなくなった。

マッキントッシュは、極地歴史家らによってその資質や指導力が問題視されてきた。シャクルトンは支隊の仕事を称え、命を落とした隊員は第一次世界大戦の塹壕で犠牲になった者達と並ぶ殉難者だとしたが、他方でマッキントッシュの統率力については批判的であった。後にシャクルトンの息子エドワード・シャクルトン男爵は、マッキントッシュを同行者のアーネスト・ジョイスとディック・リチャーズとともに遠征隊の英雄として称えている。

生い立ちと初期の経歴 (1879-1907)

イニーアス・マッキントッシュは、1879年7月1日にインドのティアハットで生まれた。スコットランド出身のアイ農園主だった父のアレクサンダー・マッキントッシュはスコットランドの氏族連合クラン・チャタン英語版の長の末裔で、イニーアスは男子5人と女子1人の6人きょうだいの1人だった。順当に行けばいずれ長の後継者となり、それにともない歴史あるインヴァネスの邸宅を相続するはずであった[1]。イニーアスがまだ幼い頃、母のアニーが突然子供たちを連れてブリテンに戻った。どのような理由で家庭内に不和が生じたかは不明だが、永遠の亀裂となったのは明らかであった[1]。父アレクサンダーはブライト病を患っており、インドに残った。イニーアスは父と再会することはなかったものの、ずっと父を慕い、定期的に手紙を送り続けた。アレクサンダーが亡くなったとき、手紙がすべて未開封のまま保管されていたことが判明した[2]

イニーアスは、ベッドフォードシャーの家からベッドフォード・モダン・スクールに通った。その後は5年前のアーネスト・シャクルトンと同じ道を進み、16歳で学校を卒業すると海に出た。商船士官の厳しい修業時代を経た後にPアンドOラインに入社し、しばらくこの会社に在籍した。1907年、シャクルトンのニムロド遠征に採用され、南極に向けて出港することになった[1]。1908年7月、マッキントッシュはイギリス海軍予備役の中尉に任官された[3]

ニムロド遠征 (1907-1909)

アーネスト・シャクルトン、ニムロド遠征の隊長

1907年から1909年のニムロド遠征は、アーネスト・シャクルトンが率いた3度のうち最初の南極探検であった。シャクルトンはその目標を「南極大陸のロス四分円(クアドラント)[注 1]へ入り、地理上の南極点南磁極への到達を目指す」ことだと述べた[5]。PアンドOラインから士官適任者としてシャクルトンに推薦されたマッキントッシュは[6]、すぐにシャクルトンの信頼を勝ち取り、仲間の士官には意思と決意の強さを印象づけた[7]。遠征隊のニュージーランド滞在中、シャクルトンはマッキントッシュを陸上部隊に加え、南極に向けた行進メンバーの候補として考えていた[8]

事故

ニムロド号が南極大陸のマクマード入江に到着して間もない1908年1月31日、船上でそり用品の運搬を手伝っていたマッキントッシュを不幸が襲った。甲板の荷下ろしフックが振れてマッキントッシュの右目を直撃し、ほぼ完全に眼球が潰れてしまった。マッキントッシュは即座に船長室に連れて行かれ、その日のうちに遠征隊の医師エリック・マーシャルが一部急造の外科手術道具を使って右目の眼球を摘出した[9]。それにもかかわらず、マッキントッシュは遠征に残留する意欲を見せ、マーシャルは「あれより気丈に振る舞える者は他にはいまい」とマッキントッシュの不屈の精神にいたく感心した[7]。この事故でマッキントッシュは陸上部隊から外され、さらなる治療を受けるため、ニュージーランドへ戻って越冬するニムロド号で送り返されることになった。遠征の主要部分には参加できなかったものの、マッキントッシュは1909年1月にニムロド号に戻り、遠征の最終段階に参加した。シャクルトンは船長のルパート・イングランドと反りが合わなくなっており、二期目の航海はマッキントッシュをニムロド号の船長にしたいと考えたが、その任務に抜擢できるほどマッキントッシュの目は傷が癒えていなかった[10]

氷の海での漂流

1909年1月1日、ニムロド号は遠征隊の陸上基地があるケープ・ロイズまで25マイル (40 km) 手前で、氷によってそれ以上の接近を阻まれた。マッキントッシュはその氷を徒歩で渡る決断をした。歴史家のボー・リッフェンバーグは、その後の過程について「この遠征全体で最も軽率だった部分」と表現している[11]

マッキントッシュと3人の水夫で構成された隊は1月3日朝に船を出発した。物資と大きな郵袋を載せたそりを引いていたが、すぐに2人の水夫が船に戻り、マッキントッシュともう1人の水夫が先に進んだ。その夜は氷の上で宿営し、翌朝目覚めると自分たちの周りの氷が壊れていることに気づいた[12]。大急ぎで動いている浮氷の上を次々と渡り、何とか小さな氷舌にたどり着くことができたので、そこで宿営し、数日間雪盲が収まるのを待った。視界が回復するとケープ・ロイズは見える範囲にあったが、そこに行くまでの海氷がなくなっており、間には海水面しかなかったので近づけなかった。適切な装備と経験がなければ危険だが、陸路伝いに進むほか選択の余地はなかった[13]

1月11日、彼らは出発した。その後の48時間、深いクレバスや不安定な雪原のある険しい地形を苦しみながら進んだ。間もなく装備や物資のすべてを失ってしまった[13]。あるときは前進するために3,000フィート (900 m) も登り、続いて雪の斜面を麓まで滑り降りなければならなかった。最終的に霧の中を何時間もうろついた挙句、運良く陸上部隊のバーナード・ディと出会った。そこは小屋からすぐの位置だった[14]。船は後に放棄された装備を回収した。当時ニムロド号の一等航海士だったジョン・キング・デイビスは「マッキントッシュという男はいつも100分の1の確率に運を任せる奴だった。この時はその運で切り抜けたのだ」と述べている[15]

その後マッキントッシュはアーネスト・ジョイス達の隊に加わり、ロス棚氷からミナ・ブラフへ旅し、南極へ向かったシャクルトン隊のために補給所を設置した。シャクルトン隊は南に進んでおり、その帰還が待たれていた[14]。3月3日、マッキントッシュはニムロド号甲板で見張りをしているときに、シャクルトンと隊が無事に帰還したことを知らせる合図の発火信号を目撃した。シャクルトン隊は目標としていた南極点に到達できず、少し手前の南緯88度23分まで行って戻って来ていた[16][17]


  1. ^ 南極圏を西経0度~90度、西経90度~180度、東経90~180度、東経0度~90度の四分円に分け、そのうち西経90度~180度の部分をいう。太平洋四分円とも呼ばれた。[4]
  2. ^ 他方、ジョン・キング・デイビスも遠征への参加を辞退した。
  3. ^ リチャーズは1985年に91歳で他界した。
  1. ^ a b c d e f g Tyler-Lewis, pp. 35-36
  2. ^ McOrist, p. 8.
  3. ^ a b Meet the Crew of Shackleton's Nimrod Expedition”. Antarctic Heritage Trust. 2009年9月5日閲覧。
  4. ^ Antarctic Regions showing the routes of the most important explorations, 1920”. Maps ETC. 2022年8月12日閲覧。
  5. ^ Riffenburgh, p. 103
  6. ^ Huntford, p. 196
  7. ^ a b Tyler-Lewis, p. 22
  8. ^ Riffenburgh, p. 141
  9. ^ Riffenburgh, p. 159
  10. ^ Riffenburgh, p. 170
  11. ^ Riffenburgh, pp. 266-268
  12. ^ Riffenburgh, p. 266
  13. ^ a b Riffenburgh, p. 267
  14. ^ a b Riffenburgh, p. 268
  15. ^ Tyler-Lewis, p. 108
  16. ^ Shackleton, Heart of the Antarctic, p. 339
  17. ^ Riffenburgh, p. 231
  18. ^ Huntford, pp. 323-327
  19. ^ Fisher, p. 300
  20. ^ a b Tyler-Lewis, p. 27
  21. ^ Fisher, p. 302
  22. ^ Huntford, pp. 371-373
  23. ^ Shackleton, p. 242
  24. ^ Fisher, pp. 397-400
  25. ^ a b Fisher, p. 398
  26. ^ Fisher, p. 399
  27. ^ Tyler-Lewis, pp. 48-53
  28. ^ Tyler-Lewis, pp. 214-215
  29. ^ McOrist, pp. 34-35
  30. ^ McOrist, p. 32.
  31. ^ Tyler-Lewis, p. 64
  32. ^ Tyler-Lewis, pp. 67-68
  33. ^ Tyler-Lewis, p. 68
  34. ^ a b Tyler-Lewis, pp. 71-72
  35. ^ Tyler-Lewis, p. 84
  36. ^ Tyler-Lewis. pp. 104-105
  37. ^ Tyler-Lewis, p. 97
  38. ^ McOrist, p. 79.
  39. ^ Tyler-Lewis, pp. 99-100
  40. ^ Tyler-Lewis, pp. 105-106
  41. ^ McOrist, p. 133
  42. ^ Bickel, pp. 72-74
  43. ^ オーロラ号は氷に囲まれ9か月間漂流し、ロス海を北上し、最後は南太平洋に達した。1916年2月に氷から解放され、1か月後にニュージーランドに戻った。Shackleton (South), pp. 307-333
  44. ^ Tyler-Lewis, pp. 135-137
  45. ^ Tyler-Lewis, pp. 138-144
  46. ^ Tyler-Lewis, pp. 145-162
  47. ^ Tyler-Lewis, pp. 163-171
  48. ^ Fisher, p. 408
  49. ^ Tyler-Lewis, pp. 184-185
  50. ^ McOrist, pp. 259-261.
  51. ^ a b Fisher, p. 409
  52. ^ Bickel, pp. 205-207
  53. ^ Bickel, pp. 206-207
  54. ^ Tyler-Lewis, p. 195
  55. ^ Bickel, p. 209
  56. ^ McOrist, p. 309.
  57. ^ Bickel, pp. 212-213.
  58. ^ a b Bickel, p. 213
  59. ^ Shackleton, pp. 302-303: Joyce's report
  60. ^ Shackleton, pp. 335-336
  61. ^ Tyler-Lewis, p. 346
  62. ^ Tyler-Lewis, p. 259-260
  63. ^ Arrow, Michelle. “Ross Sea Party”. Australian Broadcasting Corporation. 2008年4月13日閲覧。
  64. ^ Huntford, pp. 413-414, pp. 450-451
  65. ^ Tyler-Lewis, p. 259
  66. ^ Tyler-Lewis, p. 260
  67. ^ Shackleton, pp. 241-242 and p. 340
  68. ^ Tyler-Lewis, p. 252
  69. ^ Fisher, p. 423
  70. ^ Bickel, p. viii
  71. ^ Bickel, pp. 169-171
  72. ^ Tyler-Lewis, p. 271


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