イニーアス・マッキントッシュ ロス海支隊 (1914-1917)

イニーアス・マッキントッシュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 17:48 UTC 版)

ロス海支隊 (1914-1917)

初期の諸問題

シャクルトンの帝国南極横断探検隊は2つの隊で構成されていた。本隊はウェッデル海を基地とし、シャクルトンの率いる6人が南極点を経由して大陸を横切ることになっていた。他方、ロス海支隊は大陸の反対側にあるマクマード入江を基地とし、大陸を横断してくる本隊の最終段階を支援するために、ロス棚氷にわたって補給物資を置く予定であった。マッキントッシュは当初、シャクルトンの大陸横断部隊に入ることになっていた[19]。ところが、ロス海支隊の隊長選びが難航した。シャクルトンはニムロド遠征で医師を務めたエリック・マーシャルを考えていたが、指名を断られた[注 2][20][21]。また、海軍本部の軍人から支隊の任務にあたる要員を得ようとしたが、叶わなかった[22]。最終的に、マッキントッシュにロス海支隊の隊長を任せることにした[20]。乗艦するのはモーソンのオーストラリア南極遠征で活躍したばかりのオーロラ号で、この時はオーストラリアで係留されていた。シャクルトンは、ロス海支隊の任務は型どおりで特別難しくはないと見ていた[23]

マッキントッシュが1914年10月にオーストラリアに到着し、任務に就くと、すぐさま大きな困難に直面することになった。シャクルトンはロス海支隊に充てる予算を、何の予告や断りもなく、2,000ポンドから1,000ポンドと半分に減らしていた。マッキントッシュは、寄付金を募るなどして不足分を埋め[24]、さらに資金を獲得するために遠征に使う船を抵当に入れるよう指示された。すると、今度はオーロラ号の購入に関わる法的手続きが完了していないことが判明し、抵当に入れるのも遅れた[25]。また、オーロラ号は大規模な修繕を施さなければ南極海での活動に耐えられる状態ではなく、それには苛立つオーストラリア政府の協力が必要だった[25]。限られた時間の中でこうした難題に取り組むことになったマッキントッシュは大きな不安を抱くようになり、オーストラリアの大衆は、様々な混乱が生じている遠征隊に対して否定的な印象を持つようになっていった[26]。隊員の中には辞める者もいれば、解任された者もいた。出発の直前まで乗組員や科学者の補充要員をかき集めたため、できあがったのは南極での経験に著しく乏しい編成の隊であった[27]

シャクルトンはマッキントッシュに対し、次の南極シーズンである1914年から1915年にも、できるなら横断を決行する可能性をほのめかしていた。ところが、ウェッデル海に向けて出航する前に、この日程で行動を起こすのは現実的ではないと考えを改めた。しかし、マッキントッシュはこの変更を知らされなかった。この意思疎通の欠如によって、ロス海支隊は、1915年の1月から3月にかけて、準備不足のまま大混乱に近い状態で補給物資を置きに行く旅を決行することになった[28]

シャクルトンの指示は紛らわしかった。彼はマッキントッシュに補給所の設置が非常に重要だと言いつつ、助けがなくとも大陸を横断できるだけの物資を持って出るとも伝えていた。まるで、補給所に完全依存はしていないと、マッキントッシュに信じ込ませようとしていたかのようである。さらに、シャクルトンがマッキントッシュに対し、本隊がウェッデル海から横断して来ない場合に備えて、完全装備の緊急救命艇をマクマード入江に置いておくよう指示していたことは、ほとんど知られていない。1914年にシャクルトンが指示した緊急救命艇の仕様は、彼が1916年にジェイムズ・ケアード号の航海で実際に使ったものとほぼ同じであった[29]

補給所設置、最初のシーズン

オーロラ号は1914年12月24日にようやくタスマニア州ホバートを出港した。南極への航海途上、ホバートから950マイル離れたマッコーリー島が唯一の寄港地であった。1、2年ほど前、オーストラリアのダグラス・モーソンによる遠征が行われていたときに築かれた気象局があり、駐在するスタッフに物資を届けるのが寄港目的であった。その際、マッキントッシュは妻に宛てた手紙をここから送り、乗組員が「とてもいい奴ら」で、彼らと行動を共にできるのは「至上の喜び」だと書いている[30]

1915年1月16日、マッキントッシュはマクマード入江で部隊を上陸させ、ロバート・スコット大佐が以前に拠点としたエバンス岬にベースキャンプを設営した[31]。シャクルトンがウェッデル海からすでに出発した可能性があると考えたマッキントッシュは、補給物資設置の任務をすぐにも始めるべきと判断した。隊員のうち、アーネスト・ジョイスは、1901年から1904年に行われたスコットのディスカバリー遠征に加え、ニムロド遠征にも参加し、南極での経験が最も豊富であった。ジョイスは環境への順応と訓練のために時間をとる必要性を訴え抵抗したが、否定された[32]。そりに関する事柄については自分に委ねられると期待していたジョイスは、マッキントッシュが拒絶したことに衝撃を受け「ここにシャクルトンがいたなら、俺の主張を分からせてやるのだが」と日記に残している[33]

補給所設置の旅は、災難続きであった。ブリザードのせいで出発が遅れ[34]、数マイル進んだだけで雪上車が故障した[35]。また、マッキントッシュらは、エバンス岬とハット・ポイントの間にある海氷上で進行方向が分からなくなってしまった[34]。ロス棚氷の環境は、訓練も受けていない経験不足の隊員には厳しかった。棚氷に入った時点で持っていた物資の多くが荷重を減らすために途中で捨てられ、補給所まで届けられなかった[36]。ジョイスの強い反対にもかかわらず、マッキントッシュは犬たちを南緯80度まで連れて行くことに固執し、その道中全頭を死なせてしまった[37]。このときのマッキントッシュに対するジョイスの不満は「遠慮なくマッキントッシュに言ってやりたいのを、どうやって抑えればいいのか分からないが、戻るまでは我慢するしかない。ハット・ポイントに着くまでに、考えないといけないことが山ほどある」と、彼の日記に表れている[38]

3月24日、凍傷にかかり疲れ切った隊員たちは、1901年から1904年のディスカバリー遠征隊が使ったハット・ポイントの小屋に到着した。しかし、不安定な海氷によって船とエバンス岬の基地のどちらからも隔てられたその場所で、3か月近くも何もせずに待つしかなくなった[39]。1年目の補給所設置がこうした経過をたどってから、マッキントッシュの指導力に対する信頼は下がり、言い争いが増えた[40]

消えたオーロラ号

マッキントッシュと補給所設置部隊が6月初頭にやっとエバンス岬に到着すると、オーロラ号が強風で冬季の係留地から流されたという知らせが待っていた。オーロラ号には18人の隊員が乗船しており、陸上部隊の物資と装備の大半も積んだままだった。翌日、マッキントッシュは他の者たちに現状を説明した。そこに2年間滞在しなければならない可能性があるため、「燃料と照明、在庫の消費を抑える必要性」があった。彼は日記に「オーロラ号がどうなったのかがはっきり分かるまで、そり隊による活動の準備はしない。壊滅的なことが起こったとは思いたくない」と記している[41]。しかし、マクマード入江の氷は、船が戻れるような状態ではなかった。陸上部隊の10人は完全に孤立し、どうしようもないほど物資が枯渇していた[42][43]

幸運なことに、補給所に置く予定の物資は大半を揚陸済みであった。そのため、マッキントッシュは次のシーズンも任務を完全に実行できると考えた。補給所は、ロス棚氷にわたる全体と、その先のベアードモア氷河に設置することになっていた。部隊は過去の遠征、特にスコット大佐がエバンス岬に滞在した時に残された在庫を回収することで、物資や装備の不足を補うことにした。隊の全員がこの任務に対する支持を約束したが、この任務を完遂するには、南極点到達という記録的な偉業を成し遂げなければならないと、マッキントッシュは記している[44]。ただ、この数か月にも及ぶ長い準備期間は、マッキントッシュにとって楽ではなかった。隊で唯一の士官であり、隊員と密接な関係を構築するのが難しいと感じていた。マッキントッシュは次第に孤立し、特にジョイスからは公然と批判されるようになった[45]

マウント・ホープへの行進

1915年9月1日、3人ずつの分隊を組んだ計9人が、科学者のアレクサンダー・スティーブンスを一人で基地に残し、約5,000ポンド (2,300 kg) の物資をエバンス岬の基地からロス棚氷に運ぶ仕事に取りかかった。これはベアードモア氷河の麓にあるマウント・ホープまで、緯度にして1度(60海里、110 km、69法定マイル)ずつに物資を置いて行くための最初の段階だった。北緯79度のすぐ北に置いたブラフ補給所に大型の前線基地を設け、そこからマウント・ホープまで最後の行進を1916年初めに始める予定だった。この初期段階の間、物事の進め方を巡ってマッキントッシュは何度もジョイスと衝突した。11月28日には、マッキントッシュよりもジョイスの進め方が文句なしに効率が良い証拠を見せつけられ、ジョイスとリチャーズが策定した修正計画を受け入れざるを得なくなる出来事があった。ジョイスはこのときのことを「隊の責任者でこれほど愚かな奴に出くわしたことない」と記している[46]

任務の主要段階であるブラフ補給所から南への行進は1916年1月1日に始まった。数日のうちに、分隊の1つが携行ストーブの故障で前線基地に戻らざるを得なくなった。マッキントッシュ、ジョイス、アーネスト・ワイルド、ディック・リチャーズ、アーノルド・スペンサー=スミス、ジョン・ヘイワードの6人は先へ進んだ。前年に置いた南緯80度の補給所を補強し、81度と82度に新しい補給所を設置した。隊がマウント・ホープに近づくに連れて、マッキントッシュと、遠征隊の写真家であるスペンサー・スミスが足を引きずるようになった。南緯83度を過ぎてすぐにスペンサー=スミスが倒れたため、彼をテントに残して他の者で残り数マイルを苦しみながら進んだ。動きのとれないスペンサー=スミスとその場に留まろうという意見が出たが、マッキントッシュはすべての補給所を設置するのが自分の任務だと主張し、その意見を却下した[47]。1月26日、マウント・ホープに達し、最後の補給所が設置された[48]

橇に乗せられて運ばれるスペンサー・スミスとマッキントッシュ

帰りはスペンサー=スミスをそりに載せる必要があった。マッキントッシュは体調が急速に衰え始め、そりを引くことができずに横でよろめき、壊血病がひどくなって足を引きずった[49]。状態が悪くなると、しばしばスペンサー=スミスといっしょにそりに乗る必要があった。そりを引く他の隊員ですら体調が「まし」なだけで凍傷や雪盲、壊血病に苦しめられ、その行程は生き残りをかけた闘いとなっていった。マッキントッシュは、隊員の生命を心配した。2月28日、マッキントッシュは長いノートを書いた。その内容は、スコットが最期に残したいくつかの手紙に似ており、なかでも1912年3月にスコットがテント内で死に際に書いた「大衆へのメッセージ」に酷似していた。以下は、その一節である。

本隊に万一のことが起きた場合のためにこの記録を残す。本日、最後の食料を食べ尽くした。ブリザードが11日間吹き続けている。だが、我々の全員が任務を堂々と、そして見事に果たしたことを記録する。私に言えることはこれだけだ。そして、我々の生命を捧げよと神が思し召しなら、我らが伝統の定めに則って、英国流でそのようにしよう。[50]


3月8日、隊員たちがスペンサー=スミスを何とか比較的安全なハット・ポイントへ連れて行こうとする中、マッキントッシュは一人テントに残ることを志願した。だが、スペンサー=スミスは翌日死んだ[51]。次にヘイワードが倒れ、リチャーズ、ワイルド、ジョイスの3人は彼をハット・ポイントまで運んだ後、マッキントッシュの救出に戻って来た。3月18日には、ハット・ポイントで生き残った5人の全員が体力を回復していた。シャクルトンの伝記作者であるマージョリー・フィッシャーとジェイムズ・フィッシャーは、「南極探検の歴史において、最も注目すべき、不可能と思われた忍耐の偉業」を成し遂げたと著している[51]

失踪と死

凍ったマクマード入江、マッキントッシュとヘイワードは1916年5月8日にハット・ポイント(A点)を出発し、あるいてエバンス岬(B点)を目指した。C点付近で足取りが絶えた

ハット・ポイントには壊血病の悪化防止に役立つ新鮮なアザラシ肉があったので、生存者たちはゆっくりと体力を回復した。マクマード入江の海氷は状態が安定せず、エバンス岬の基地まで戻る残りの行程を阻んでいた[52]。ハット・ポイントでは単調な食事が続き、慰みもなく、絶望的で重苦しい状況であった[53]。特にマッキントッシュは小屋の汚さに耐えかねており、ハット・ポイントにいたのでは船が戻っても間に合わずに取り残されてしまう可能性を心配した[54]。1916年5月8日、マッキントッシュは海氷の状態を調べたうえで、ヘイワードとともにエバンス岬まで歩いて渡る危険を冒すつもりだと宣言した[55]。リチャーズ、ジョイスとワイルドの3人は反対したが、2人の決意を覆すことはできなかった。マッキントッシュは依然として隊長であり、彼の手足を縛ることでもしない限りは、行くなと言うほかなかった。後年、リチャーズはあるインタビューで、ヘイワードはマッキントッシュほど出発したくはなかったのではないかと述べている。リチャーズによれば、ヘイワードは半信半疑であったが、「恥をかく」のが嫌だったのではないかと思ったという[56]

仲間の必死の説得にもかかわらず、2人は軽い物資だけを担いで出発した[57]。2人がハット・ポイントから見えなくなって間もなく厳しいブリザードが吹き始め、2日間続いた。ブリザードが収まったとき、ジョイスとリチャーズが氷の上にまだ残っていた足跡をたどると、大きなクラックのある場所で足跡が途絶えていた[58]。ジョイスとリチャーズ、ワイルドが6月に何とかエバンス岬に到着したとき、マッキントッシュとヘイワードはどちらもエバンス岬に着いていなかった。ジョイスが広範な捜索を行ったが、2人の足跡はつかめなかった[59]。1917年1月にオーロラ号がやっとエバンス岬に戻って来たあと、さらに捜索が行われたが結果は同じであった[60]。あらゆる兆候が、マッキントッシュとヘイワードの2人は氷の間に落ちたか、あるいは氷に乗ったままブリザードによって海に吹き流されたことを示していた[58]


  1. ^ 南極圏を西経0度~90度、西経90度~180度、東経90~180度、東経0度~90度の四分円に分け、そのうち西経90度~180度の部分をいう。太平洋四分円とも呼ばれた。[4]
  2. ^ 他方、ジョン・キング・デイビスも遠征への参加を辞退した。
  3. ^ リチャーズは1985年に91歳で他界した。
  1. ^ a b c d e f g Tyler-Lewis, pp. 35-36
  2. ^ McOrist, p. 8.
  3. ^ a b Meet the Crew of Shackleton's Nimrod Expedition”. Antarctic Heritage Trust. 2009年9月5日閲覧。
  4. ^ Antarctic Regions showing the routes of the most important explorations, 1920”. Maps ETC. 2022年8月12日閲覧。
  5. ^ Riffenburgh, p. 103
  6. ^ Huntford, p. 196
  7. ^ a b Tyler-Lewis, p. 22
  8. ^ Riffenburgh, p. 141
  9. ^ Riffenburgh, p. 159
  10. ^ Riffenburgh, p. 170
  11. ^ Riffenburgh, pp. 266-268
  12. ^ Riffenburgh, p. 266
  13. ^ a b Riffenburgh, p. 267
  14. ^ a b Riffenburgh, p. 268
  15. ^ Tyler-Lewis, p. 108
  16. ^ Shackleton, Heart of the Antarctic, p. 339
  17. ^ Riffenburgh, p. 231
  18. ^ Huntford, pp. 323-327
  19. ^ Fisher, p. 300
  20. ^ a b Tyler-Lewis, p. 27
  21. ^ Fisher, p. 302
  22. ^ Huntford, pp. 371-373
  23. ^ Shackleton, p. 242
  24. ^ Fisher, pp. 397-400
  25. ^ a b Fisher, p. 398
  26. ^ Fisher, p. 399
  27. ^ Tyler-Lewis, pp. 48-53
  28. ^ Tyler-Lewis, pp. 214-215
  29. ^ McOrist, pp. 34-35
  30. ^ McOrist, p. 32.
  31. ^ Tyler-Lewis, p. 64
  32. ^ Tyler-Lewis, pp. 67-68
  33. ^ Tyler-Lewis, p. 68
  34. ^ a b Tyler-Lewis, pp. 71-72
  35. ^ Tyler-Lewis, p. 84
  36. ^ Tyler-Lewis. pp. 104-105
  37. ^ Tyler-Lewis, p. 97
  38. ^ McOrist, p. 79.
  39. ^ Tyler-Lewis, pp. 99-100
  40. ^ Tyler-Lewis, pp. 105-106
  41. ^ McOrist, p. 133
  42. ^ Bickel, pp. 72-74
  43. ^ オーロラ号は氷に囲まれ9か月間漂流し、ロス海を北上し、最後は南太平洋に達した。1916年2月に氷から解放され、1か月後にニュージーランドに戻った。Shackleton (South), pp. 307-333
  44. ^ Tyler-Lewis, pp. 135-137
  45. ^ Tyler-Lewis, pp. 138-144
  46. ^ Tyler-Lewis, pp. 145-162
  47. ^ Tyler-Lewis, pp. 163-171
  48. ^ Fisher, p. 408
  49. ^ Tyler-Lewis, pp. 184-185
  50. ^ McOrist, pp. 259-261.
  51. ^ a b Fisher, p. 409
  52. ^ Bickel, pp. 205-207
  53. ^ Bickel, pp. 206-207
  54. ^ Tyler-Lewis, p. 195
  55. ^ Bickel, p. 209
  56. ^ McOrist, p. 309.
  57. ^ Bickel, pp. 212-213.
  58. ^ a b Bickel, p. 213
  59. ^ Shackleton, pp. 302-303: Joyce's report
  60. ^ Shackleton, pp. 335-336
  61. ^ Tyler-Lewis, p. 346
  62. ^ Tyler-Lewis, p. 259-260
  63. ^ Arrow, Michelle. “Ross Sea Party”. Australian Broadcasting Corporation. 2008年4月13日閲覧。
  64. ^ Huntford, pp. 413-414, pp. 450-451
  65. ^ Tyler-Lewis, p. 259
  66. ^ Tyler-Lewis, p. 260
  67. ^ Shackleton, pp. 241-242 and p. 340
  68. ^ Tyler-Lewis, p. 252
  69. ^ Fisher, p. 423
  70. ^ Bickel, p. viii
  71. ^ Bickel, pp. 169-171
  72. ^ Tyler-Lewis, p. 271





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