アドマイヤベガ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/18 07:51 UTC 版)
競走馬時代
3歳(1998年)
1998年11月7日、予定通りの新馬戦(芝1600メートル)でデビューとなる。橋田と武は、この前週の天皇賞(秋)にてサイレンススズカを喪っており、それ以来のコンビ再結成だった。少なくとも橋田はそのわだかまりを捨て去り、気持ちを切り替えて当日を迎えていたという[27]。単勝オッズ1.7倍の1番人気に支持される。最内枠からスタートし、馬群の内側の好位を確保[22]。最終コーナーで外に持ち出してから進出しようと企んでいたが、進路が塞がって内に転進せざるを得ず、空いていた馬場の最内を突いて進路を確保した[22]。それから末脚を発揮して、先頭を争う2頭をかわして抜け出し、後は独走、後方に2馬身半差をつけて先頭で決勝線を通過していた[22]。
しかし審議となり、アドマイヤベガの進路妨害行為が認められて降着処分を受ける[23]。審議の対象となったのは、最内を突いた際、その最内後方にいたフロンタルアタックの前面に接触しており、フロンタルアタックが躓いてしまったためだった[23]。1位入線を果たしたものの、被害を受けた4位入線のフロンタルアタックの次にあたる4着となる[26]。クラシックを見つめる橋田にとっては、まさかの敗戦であり、サイレンススズカに続く災難であった[26]。しかし橋田は、未勝利の身ながら予定通りエリカ賞に臨もうと決意。敗戦したその日のうちに、エリカ賞に進むと近藤へ提案し、了解を取り付けた[27]。ローテーションを変更することなく、エリカ賞への強行を決めた理由は、2戦目の新馬戦もしくは未勝利戦を用いることで様々な予定が狂うため[注釈 5]、またクラシックまで予約済みの武を失う危険があるためだった[25]。
12月5日、エリカ賞(500万円以下)への出走が叶う。武にとっては、先の新馬戦で下された騎乗停止処分が解けた初日だった[27]。8頭立て、既に勝利を挙げている馬が相手だったが、未勝利のアドマイヤベガが1.2倍の1番人気だった[27]。スタートから6番手、後方を追走する[28]。第3コーナーで3番手、最終コーナーで2番手にまで進出、直線で抜け出した。追い込むスリリングサンデーに迫られたものの、クビ差先着[28]。格上挑戦で初勝利を挙げる。
それから12月26日、予定通りラジオたんぱ杯3歳ステークス(GIII)に臨む。11頭立て、2.1倍の1番人気に支持される[29]。肉薄する2.4倍の2番人気が、マチカネキンノホシであり、マチカネキンノホシは朝日杯3歳ステークスで4着となっていた。続く10.9倍の3番人気は、京都3歳ステークス優勝馬のオースミブライトだった。アドマイヤベガはスタートでやや後れを取り、中団を追走する。第3コーナーで位置を上げて、最終コーナーで大外に持ち出して末脚を発揮、先行勢をすべて差し切った[30]。後方から追い込んだマチカネキンノホシを封じて決勝線を通過、マチカネキンノホシに半馬身差をつけて重賞初勝利を挙げる[30][29]。
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1998年 ラジオたんぱ杯3歳ステークス(GIII) レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画 |
この年のJRA賞では、全208票中3票を集めて、最優秀3歳牡馬の次点となる[31]。受賞は、204票を集めた同厩舎同馬主のアドマイヤコジーンであった[注釈 6][32]。アドマイヤコジーンは、アドマイヤベガとの使い分けをして朝日杯3歳ステークスに進み、優勝していた[30]。この後、アドマイヤコジーンとアドマイヤベガは、同門、身内の同士でクラシックを争うざるを得なかった[25]。そのため、前哨戦までは再び使い分けを行い、アドマイヤコジーンをトライアル競走の弥生賞に、アドマイヤベガをすみれステークスに出走させようと企てる[33]。しかし、ほどなくアドマイヤコジーンが骨折してクラシック絶望となり、アドマイヤベガが代わって弥生賞に臨むこととなった[25]。
4-5歳(1999-2000年)
弥生賞 - 皐月賞
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1999年 弥生賞(GII) レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画 |
4歳となった1999年の3月7日、弥生賞(GII)に臨む。初めて関東遠征を行い、中山競馬場に移動してからは一時食欲不振に陥っていた[25]。1.5倍の1番人気の支持であり、きさらぎ賞(GIII)優勝馬のナリタトップロードが4.0倍、ホープフルステークス(OP)優勝馬のトウカイダンディーが7.8倍で続いていた[34][35]。4枠6番が与えられたアドマイヤベガは、スタート直後に控えて、後方を追走する[36]。今後のために控える競馬を実践していた[33]。第3コーナーから馬場状態の良い外側に持ち出してから追い上げを開始[34]。直線で末脚を発揮し、大外からほとんどすべてを差し切った[37]。しかし、中団を追走し先に抜け出していたナリタトップロードだけには敵わず、ナリタトップロードに1馬身後れを取る2着[34]。皐月賞の優先出走権は得ることができた[35]。
続いて皐月賞を目指したが、調教を積んでいる最中の栗東にて、再び食欲不振に陥っている[25]。加えて今回は体温も不安定だった[38]。弥生賞直前は、初の長距離輸送が堪えたと考えられたが、本拠地栗東での食欲不振では、原因が全く不明だった[25]。不調を脱するために、通常水曜日に行う最終追い切りを遅らせて木曜日に実施するなど、橋田によれば「最善」の対応を行ったが叶わなかった[39][25]。あまりの不調に、回避の選択肢もちらついていたが、近藤と橋田など陣営が協議し、出走を強行する[38]。
4月18日、皐月賞(GI)に臨む。不調が続いたまま当日を迎え、馬体重は、弥生賞からマイナス12キログラムであった[25]。それでも、2.7倍の1番人気に支持となる[39]。弥生賞で敗れたナリタトップロードが3.3倍の2番人気であり「二強」とされていた[39]。続く3番人気は、札幌3歳ステークスを5馬身差で制し、春始動戦の若葉ステークスも制したマイネルプラチナムの6.9倍であり、以降、ニシノセイリュウ、テイエムオペラオー、オースミブライトという具合だった[39]。アドマイヤベガは1枠2番が与えられたが、スタート直前で1枠1番ワンダーファングが立ち上がって負傷し競走除外、よって最内枠からの発走となる[40]。良馬場ながら雨が降る中の決戦だった[39]。
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1999年 皐月賞(GI) レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画 |
アドマイヤベガは、弥生賞同様にスタート直後に後方に控えた。17頭立て12番手に位置し、平均ペースを追走[39]。第3コーナーに差し掛かって、前方では中団に構えたナリタトップロードと、オースミブライトが台頭しており、アドマイヤベガはそれを追う必要があった[41]。武は、弥生賞と同様に大外から追い上げを企み、徐々に外に持ち出す。しかし、あてにしていた大外を、後方から来たテイエムオペラオーに使われてしまい、進路を失ってしまった[42]。急遽、外から内に転進し、直線では馬群に割って末脚を発揮するが、これまでの威力は繰り出せなかった[38]。馬群から抜け出るのが精一杯で、先頭争いには加わることができず[40]。先頭争いは、先に抜け出したナリタトップロード、オースミブライトが競り合っていたが、アドマイヤベガに代わって大外を確保したテイエムオペラオーが、末脚を発揮して他をまるごと差し切り優勝[42]。アドマイヤベガはそれらに3馬身以上後れを取る6着となる[41]。
東京優駿
アドマイヤベガは続戦し、次なる目標をクラシック第二弾の東京優駿に定める。橋田ら陣営は、皐月賞での敗因を、専ら食欲不振などの不調にあると捉えていた[43]。目標に出走し成果を上げるには、不調を脱し立て直す必要があったが、それを1か月という短期間でこなす必要があった[38]。そのため、この1か月はトレーニングよりも、体調良化に集中する[43]。特に担当の持ち乗り調教助手・児玉武大が、毎日アドマイヤベガの状態を見極めたうえで、最適な調教を選択していた[38]。本番が近づくにつれて、不調を脱して好調に至り、さらには成長することも出来たという[43]。
そして6月6日、東京優駿(日本ダービー)(GI)に臨む。当日の馬体重は、皐月賞に比べてプラス10キログラムであり、弥生賞並の馬体重を実現[44]。当日、午後1時時点のオッズは4.5倍だったが、馬体重が発表されてから人気が上昇し、最終的に3.9倍という支持を集めた[45]。皐月賞3着のナリタトップロードも同様に3.9倍であり、票数の差でナリタトップロードが1番人気、アドマイヤベガが2番人気だった[44]。また皐月賞優勝馬のテイエムオペラオーは、4.2倍の3番人気で続き、人気を分け合った3頭が「三強」と認識されていた[45]。三強の後には、皐月賞2着のオースミブライト、青葉賞優勝馬のペインテドブラック、プリンシパルステークス優勝馬のブラックタキシードが続いていた。18頭が出走する中、アドマイヤベガは1枠2番を与えられる。騎乗する武は前日に、中京競馬場で近藤と接触しており「思い切った乗り方」をすると予告、近藤も承諾していた[46]。
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1999年 東京優駿(日本ダービー)(GI) レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画 |
好スタートを見せたアドマイヤベガだったが、これまで通りに控えて後方待機、15番手となる[44]。対するテイエムオペラオーが8番手、ナリタトップロードが11番手であり、他2頭を見下ろすことができる位置だった。平均ペースの中、逃げ馬と後方待機馬の間隔が広い縦長の展開となった[44]。第3コーナーから、まずテイエムオペラオーが進出を開始し、ナリタトップロードがそれを外から捕まえにかかった。一方のアドマイヤベガはすぐには動かず、最終コーナー付近で最内から大外に持ち出してから、追い上げを開始[47][46][44]。
直線では、テイエムオペラオーとナリタトップロードが、先行勢を吸収し先頭に並び立っており、その外から接近する。やがてテイエムオペラオー、ナリタトップロード、アドマイヤベガの順で内から外に雁行する形となった[45]。残り200メートル、坂を登り切ったあたりから、先に抜け出していたテイエムオペラオーが鈍り、追いかける2頭が優勢となり、代わってナリタトップロードが単独先頭となったがほどなく鈍った[45]。そして大外から遅れてスパートしたアドマイヤベガの末脚が2頭を上回り、まとめて差し切った[46]。アドマイヤベガが、外から内に雁行する形を仕立てて、先頭で決勝線を通過する。
ダービー戴冠、1990年アイネスフウジンの樹立したレースレコードタイで走破していた[48]。またダイナカール・エアグルーヴ母娘以来3年ぶり史上7頭目となる母仔のクラシック優勝だった[49]。武は前年をスペシャルウィークで制していることから、史上初めてとなるダービー連覇[49][47]。橋田はダービートレーナー、近藤はダービーオーナーの称号を初めて得た[48]。加えてノーザンファームは、1996年フサイチコンコルド以来の2勝目だった[48]。
武は「ビシビシ鍛えてダービーに臨んだわけではなかったので、そのあたりが少し心配でしたが、いい感触でゲートインすることができました(中略)4コーナーで外に出した時も回り切る時にうまく出すことができたし追い出しのタイミングも最高でした。昨年のスペシャルウィークと同じで、デビュー前からこの馬でダービーに行きたいと思っていました。お母さんにオークスを勝たせてもらって、息子にはダービーを勝たせてもらった。夢ような〔ママ〕素晴らしい親仔と巡り合うことができました。[49]」と話している。
秋 - 引退
ダービーから数日後の6月9日に、ノーザンファームに帰還し放牧。夏休みとなる[15]。7月中旬には運動を再開し、8月9日からは実際の競馬を思い出すために函館競馬場に一旦滞在[15]。それから、9月1日に栗東に帰厩する[50]。陣営は、秋の目標をクラシック第三弾の菊花賞に設定し、前哨戦については古馬相手の京都大賞典か、トライアル競走の京都新聞杯という二択を想定していた。このうち開催時期が遅い方である京都新聞杯を選択[50]。理由は、夏の北海道が例年になく猛暑で、帰厩が遅れたためだった[50]。
10月17日、京都新聞杯(GII)に臨む。ダービー2着のナリタトップロード、同4着かつ宝塚記念6着、さらに神戸新聞杯優勝から臨むオースミブライトとの対決となる中、ナリタトップロードが2.8倍、アドマイヤベガが3.0倍、オースミブライトが3.6倍という三強が形成していた[51]。アドマイヤベガはスタートからオースミブライトとともに後方待機となる。中団にはナリタトップロードがいた[52]。平均ペースの追走を経て、第3コーナーから進出を企てて馬群に突入しようと考えたが進路が見当たらず、仕方なく大外に持ち出してスパートを実行する[53]。前方では、先行して抜け出していたメジロロンザンをナリタトップロードが追っており、アドマイヤベガはそのナリタトップロードを外から追う形となった[52]。ナリタトップロードがメジロロンザンを下して先頭に立った時には、アドマイヤベガはナリタトップロードの傍らまで接近しており、まもなくナリタトップロードをかわして先頭交替となる[52]。すべてかわしたアドマイヤベガは、武が手綱を緩める余裕を見せて先頭で決勝線通過を果たす[52]。ナリタトップロードにクビ差をつけて重賞3勝目、1992年ミホノブルボン、ライスシャワー以来となるダービーワンツーによるワンツーフィニッシュだった[51]。武は、第3コーナーから外を回し、ペース的に有利な先行勢を封じたことについて「最悪とも言える展開になって、それでも余裕を持って差し切れたというのはやはり自信につながりますね。菊花賞で、あれ以上の悪い形になることはないでしょうから[53]」と述べていた。
11月7日、本番の菊花賞(GI)に臨む。外枠8枠14番が与えられ、逃げ馬が続々回避して逃げ馬不在の超スローぺースが目されており、追い込みのアドマイヤベガにとって不利な条件が重なっていた[54]。それでも既に「最悪」(武豊)な状況だった京都新聞杯を覆したことで人気が集中、ナリタトップロードや京都大賞典3着から臨むテイエムオペラオーを上回る2.3倍の1番人気に支持され、三強からアドマイヤベガが一歩抜きん出る形だった[54]。
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1999年 菊花賞(GI) レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画 |
スタートしてアドマイヤベガは中団馬群の外側を、予定通り超スローペースの追走となり、余計な距離を走りつつ、逆転の難しい展開に追い込まれた[54]。加えて人気が集中するとともに、他騎手からのマークも厳しくなり、行かせまいと進路が塞がれてしまった[54]。2周目から打開を試みるも進路が見つからず、武は「さすがにカッときました[54]」と振り返っている。追い上げられないまま最終コーナーに達し、最内を突こうとしたがこれも塞がれ、仕方なく大外に持ち出してからのスパート[54]。しかしスムーズに抜け出して競り合ったテイエムオペラオー、ナリタトップロード、ラスカルスズカとは大きな差があり、追い上げても届かなかった[55]。先頭争い3頭はクビとクビの決着でナリタトップロードが制したが、アドマイヤベガはその3頭に約3馬身以上離された6着となる[55]。片山良三によれば、アドマイヤベガに降りかかったのは武の京都新聞杯後のコメントを引用して「最悪の上を行く最悪[54]」だったとしている。
菊花賞の後は続戦せずに福島県いわき市の競走馬総合研究所常盤支所「馬の温泉」や宮城県山元町の山元トレーニングセンターにて、休養となる[2]。この年のJRA賞最優秀4歳牡馬は、皐月賞優勝馬のテイエムオペラオーだった。年を越して2000年、4歳となっても春は休養し続けた[2]。7月になって山元トレーニングセンターから函館競馬場に入厩[56]。陣営は、秋のオールカマーでの戦線復帰と、天皇賞(秋)やジャパンカップへの参戦を目指していたが、7月31日の調教中に左前脚繋靭帯炎を発症し、即日引退が決定する[2][56]。
アドマイヤベガの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | サンデーサイレンス系/ヘイロー系 |
[§ 2] | ||
父 *サンデーサイレンス Sunday Silence 1986 青鹿毛 アメリカ |
父の父 Halo1969 黒鹿毛 アメリカ |
Hail to Reason 1958 |
Turn-to | |
Nothirdchance | ||||
Cosmah 1953 |
Cosmic Bomb | |||
Almahmoud | ||||
父の母 Wishing Well1975 鹿毛 アメリカ |
Understanding 1963 |
Promised Land | ||
Pretty Ways | ||||
Mountain Flower 1964 |
Montparnasse | |||
Edelweiss | ||||
母 ベガ 1990 鹿毛 北海道早来町 |
*トニービン Tony Bin 1983 鹿毛 アイルランド |
*カンパラ 1976 |
Kalamoun | |
State Pension | ||||
Severn Bridge 1965 |
Hornbeam | |||
Priddy Fair | ||||
母の母 *アンティックヴァリューAntique Value 1979 鹿毛 アメリカ |
Northern Dancer 1961 |
Nearctic | ||
Natalma | ||||
Moonscape 1967 |
Tom Fool | |||
Brazen | ||||
母系(F-No.) | アンティックヴァリュー系(FN:9-f) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | Almahmoud4×5 | [§ 4] | ||
出典 |
注釈
- ^ ミスターシービーに3秒後れを取る17着敗退。
- ^ 詳細は、シャダイソフィア#3-4歳時(1982-1983年)
- ^ シクレノンシェリフ、ステージチャンプ、ガレオン、ラリーキャップの4頭。最高は、BNW(ウイニングチケット、ビワハヤヒデ、ナリタタイシン)に次ぐ4着となったガレオン[11]。
- ^ 1952年スウヰイスー、1954年ヤマイチ、1957年ミスオンワード、1964年カネケヤキ、1975年テスコガビー、1986年メジロラモーヌ、1987年マックスビューティ[13]。
- ^ 例えば、同期で橋田近藤タッグのアドマイヤコジーンは、アドマイヤベガを考慮して使い分けを行い、朝日杯3歳ステークスへの出走していた。
- ^ 残る1票は該当なし[31]。
- ^ 1位入線4着降着
- ^ 共にオーストラリアG3。
出典
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