たいら‐の‐かげきよ〔たひら‐〕【平景清】
藤原景清
(平景清 から転送)
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藤原 景清(ふじわら の かげきよ、生年不詳 - 建久7年〈1196年〉[1])は伊勢平氏の侍大将[2]。「平景清」とも[2]。「悪七兵衛」[3][2]、「上総七郎兵衛」[2]等と称される。藤原忠清の子[1]。伊勢・志摩の在地武士であると思われる[2]。
概要
『山槐記』によれば、治承四年、「即位した安徳天皇を警護する十七人の滝口の武士の一人として清盛に推薦される」[2]。『吾妻鏡』は一ノ谷の合戦において熊谷直実と平山季重が平家を襲撃した際これと戦った人物の一人として名前が登場する[2][4]。『平家物語』における記述は後述する。
逸話
概要
『平家物語』では景清に関するまとまった記述は後述する「錣引」の逸話のみだが[5]、その後謡曲や幸若舞といった中世の芸能で景清の後日談が成長し[5]、近世においては人形浄瑠璃や歌舞伎で「景清物」という一大分野に発展した[5]。
こうした後日談としては以下のものがある(個々の逸話の詳細は後述する)
| 謡曲 | 幸若舞曲 | 人形浄瑠璃 | ||
|---|---|---|---|---|
| 大仏供養 | 景清 | 景清 | 出世景清 | |
| 頼朝暗殺を企てたが失敗して逃亡 | ◯ | ◯ | ◯ | |
| 馴染みの遊女の密告により捕らえられそうになった | ◯ | ◯ | ||
| 捕縛された舅を助けるために自首し、牢に入れられた | ◯ | ◯ | ||
| 牢破りをしたが、舅に迷惑がかかるのを避けるため自ら牢に戻った | ◯ | ◯ | ||
| 盲目となった(理由は記載なし(謡曲)、頼朝暗殺の執念を断つため(幸若舞曲、出世景清)) | ◯ | ◯ | ◯ | |
| 断首の際に清水観音が身代わりになるなど、清水観音の様々な奇跡で景清が救われた | ◯ | |||
| 晩年を日向国の宮崎で過ごした(理由は流罪になった為(謡曲)、頼朝に許されて所領として与えられた為(幸若舞曲、出世景清)) | ◯ | ◯ | ◯ | |
この他に廃曲となった謡曲『籠景清』があり[6]、そこでは断首になったはずの景清が観音の利生により命が助かったという逸話を述べる[6]。
これらの伝承は謡曲や幸若舞曲で取り扱われたものであるが[6]、『平家物語』には記述がない[6]。謡曲では大した説明もなくこうした伝承が扱われているが、これは説明無しでも謡曲の享受者が内容を理解できた事を意味し[6]、したがって謡曲が作られた段階ではすでにこれらの伝承が広まっていた事が想定される[6]。
謡曲の『大仏供養』と『籠景清』は幸若舞曲『景清』と内容の共通性が見られ[7]、謡曲の『景清』のみが独立している[7]。また田代慶一郎によれば『大仏供養』と『籠景清』が幸若舞曲『景清』より「後作なのはほぼ確実」[7]である。一方、西尾邦夫は逆に大仏供養が幸若舞曲に先行している事を想定している[注 1]。
琵琶法師との関係
景清が盲目になったとする伝承は、同じく盲目の琵琶法師との関係が見られ、琵琶法師には景清を開祖または祖神とする伝承がある他[5]、景清を『平家物語』の原作者の一人とする伝承が中世にあった[5]。
『臥雲日件録』の1472年の記述にその旨が記載されているし[6]、同書の1448年の記事にも「景一、清一」という平家語りが登場し、名前に「一」をつける一方流の習慣を景清に適用したものだという推定がある[6]。この二人は明石覚一の弟子とされるので、景清を平家語りの元祖とする説がかなり古くまで遡れる事になる[6]。
謡曲の『景清』においても、景清は日向の「勾当」であると名乗っているが[8][9][10][11]、「勾当」は琵琶法師などに与えられた官位であり[11]、景清が平曲を語る盲人とみなされていた事になる[11]。
「ほとんど全国的に分布する景清伝説」[5]も「琵琶法師の足跡と無関係ではないだろう」[5]。晩年の景清が過ごしたとされる日向国の宮崎には景清を祀る生目八幡神社があり[5]、「近世を通じて日向地方の盲僧の拠点」[5]となっていた。出羽の羽黒山にも「景清を開祖とする盲僧派」[5]がかつて存在したと言われており[5]、昔話の『隣の寝太郎』でも寝太郎の先祖に景清がいたとするのも、「景清を元祖とする盲人の一群」が伝搬にあずかったためと言われる[5]。
平家物語
『平家物語』における景清に関する記述は異本を含めても十回にも満たず[12]、それらの記述においても合戦や残党活躍譚に登場する侍大将の一人として名前を連ねているに過ぎない[12]。
唯一のまとまった記述は、源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ)を素手で引きちぎったという「錣引」の逸話のみであり[5][12]、覚一本では巻十一「弓流」に記載されている。
「錣引」で景清は「是こそ京わらんべのよぶなる上総悪七兵衛景清よ」と名乗りを挙げており[5]、すでに「悪七兵衛」という異名が見える。
それ以外の記述としては一ノ谷で熊谷直実が求める敵の一人として名前を上げる他[2]、屋島でも義経が「悪七兵衛ならばもらすな、射取れや」と三百騎で攻めているなど源氏方の警戒が見て取れる[2]。
謡曲の『大仏供養』
謡曲の『大仏供養』では、源平合戦後に行われた大仏供養の際に頼朝暗殺を企てたとする逸話が載る。『大仏供養』によれば暗殺は失敗し、景清は名乗りをあげた後に逃げていく。
頼朝が奈良の東大寺の大仏を供養をしたという話は『吾妻鏡』の建久6年3月の条にも記述があるが[13]、そこで景清に狙われたという話は見えない[13]。
しかし増補系の長門本の平家物語には大仏供養を行った際に景清が降参した[14][13]、あるいは大仏供養の日を数えて餓死したという逸話が載り[14][13]、「六代被斬」の段に大仏供養の際に頼朝が暗殺されそうになったという逸話が載るので[14]、この暗殺者を景清とする事で前述の話が構想されたものであろう[14]。
景清伝説の重要な骨子となる清水観音信仰も、暗殺前の参拝という形ですでに『大仏供養』見える[14]。
また景清の太刀の名称「あざ丸」も本作にすでに見え、この名称が後に幸若舞曲『景清』や古浄瑠璃『かげきよ』でも用いられた[11]。
謡曲の『景清』
謡曲の『景清』では源平合戦後、景清は日向国に流され、盲目の乞食となり村人の情で命をつなぐ敗残者として描かれている[8][9][10][11]。その景清のもとに訪ねてきた娘の「人丸」に錣引の逸話を形見として語り、別離する[8][9][10]。
人丸は景清がその昔、尾張国熱田で遊女との間に作った娘で、「女子なれば何の用に立つべきぞ」と思い、鎌倉で宿の主人に預けおいた子である[8][9][10]。後述する幸若舞や人形浄瑠璃でも景清の馴染みの遊女が登場している[11]。
本作では景清の子供は娘なのに対し、後述する幸若舞曲では遊女との間には男児二人、正妻との間にも男児二人である[15]。
田代慶一郎によればこれが本作の女児になったとは想像しにくいが[15]、『尊卑分脈』の紀氏系図に「母悪七兵衛景清女」という記載がある事から[15]、景清の娘に関する伝承が当時あった事が想像され[15]、こうした伝承を元に本作が作られたのかもしれない[15]。
本作において景清が盲目になった理由は明示されず、日向国に流されたのは「源氏に憎まれ」[9][10]た為であるが、幸若舞などの後続作品では、これとは異なった理由が与えられる。
幸若舞の『景清』
幸若舞の『景清』でも頼朝襲撃、捕縛、日向下向という大筋はこれまでの逸話と一致しているが、内容はかなり複雑化している。後述のように、人形浄瑠璃や歌舞伎などで取り上げられている逸話の多くが、すでに何らかの形でここに登場しているので、そういった逸話を紹介しながら、本作のあらすじを詳しく見ていく。
まず頼朝襲撃に関しては、景清は「てかい門」、般若寺、清水坂と三度にわたり頼朝の命を狙うが、いずれも源氏方の畠山重忠に拒まれて失敗する[16][17]。
そしてその後に馴染みの遊女の裏切りによって危機に陥るという逸話が追加されている。景清には清水坂に「あこおう」という九年来の馴染みの遊女がいたのだが、「景清の命に懸賞金をかける」という趣旨の源氏方の高札を見て、金欲しさに景清の事を密告[16][17]。景清は捕らえられそうになるが、すんでのところで脱出に成功する[16][17]。
この際、景清は「あこおう」との間にできた子供二人に「(自分を裏切った)母に寄り添うより、閻魔の庁にて自分を待て」と言い聞かせて二人を刺し殺している[16][17]。「あこおう」自身は景清に殺されず、景清の逃亡先を再び密告したが、密告を聞いた頼朝は「あこおう」の不人情を責めて彼女を処刑した[16][17]。
捕縛に際しては舅の大宮司に関する逸話が追加されている。景清は遊女の「あこおう」とは別に熱田も十年来の妻がいたのだが、その妻の父にあたる大宮司が源氏方に捕らえられ、処刑されそうになる[16][17]。その処刑の前に、景清は自ら六波羅に出頭し、大宮司を救うのだった[16][17]。
捕らえられた景清は牢の中で源氏方に嘲弄されたため、牢破りを決意する。そして景清は清水観音に祈り、力を込めると、釘が取れて縄もちぎれ、牢破りに成功する。しかしこのまま逃げれば大宮司に迷惑がかかると、自ら牢に戻った[18][17]。
最後に日向下向に関しても、清水観音の利生譚が加わっている[18][17]。頼朝の命により、景清を処刑しようと首を切り落とすと、景清の首が千手観音の首に変わってしまう[18][17]。普段景清が信仰する清水観音が身代わりになったのだ[18][17]。
これを知った頼朝は景清を許し、日向国宮崎の庄を与えた[18][17]。景清は日向国に下向し、八十三歳で大往生を遂げる[18][17]。
なお、景清は本作でも謡曲『景清』と同じく盲目になるが、謡曲と違い、盲目になった理由が明示されている。その理由は頼朝暗殺の執念を断つために自ら目をえぐるというものである[18][17]。また一度失った視力も、清水観音の参詣で再び回復している[18][17]。
古浄瑠璃の『かげきよ』も本作と「描写の表現をわずかに異にする程度で大体同じもの」[19]である。詳しくは参考文献[19]を参照されたい。
人形浄瑠璃の『出世景清』
人形浄瑠璃の『出世景清』は近松門左衛門が竹本義太夫のために書いたもので、本作をもって義太夫節による新浄瑠璃の嚆矢とする[20]。また本作は人形浄瑠璃や歌舞伎における「景清物」の基本となった作品でもあり[20]、「阿古屋の琴責」、「景清牢破り」といった『壇浦兜軍記』や歌舞伎十八番之内『景清』に見られる場面の原型を含んでいる[20][21]。
初演の年は、東大寺大仏修復の大勧進を開始した年にあたり[20]、頼朝襲撃の場面も従来の大仏供養の場ではなく、大仏殿再建に関連付けられている[22]。なお、初演の年は「源平合戦の武将たちの五百年忌」[22]でもあるので、景清が題材に選ばれた[22]。
本作は先行する幸若舞や古浄瑠璃の流れを踏襲し、頼朝襲撃(本作では頼朝当人ではなく、その前準備として畠山重忠を狙う)、馴染みの遊女の裏切り、捕縛、牢破り、断首の歳の観音による身代わり、両眼のくり抜き、日向下向といった逸話を述べる。
ただし、本作ではそこから悲劇的な葛藤をとりだして、人間性豊かなドラマに仕立てたと評価される[23]。具体的には幸若舞の『景清』でも登場した景清の馴染みの遊女と妻という「2人の対照的な女性の話を横筋として絡ませながら」[21]、様々な逸話を「悲愴感に溢れ変化に富んだ展開を見せる」[21]。なお、本作では景清の馴染みの遊女は「阿古屋」と名を変え、妻には「小野姫」という名前が与えられた[22]。
特に阿古屋の悲劇性は、本作において評価の高い箇所である[22][24]。本作においては、阿古屋が景清を裏切る原因は、先行作品のような金銭ではなく、景清の妻である小野姫に対する嫉妬である[22]。
阿古屋に絡む悲劇は以下のようなストーリーである。阿古屋は、景清と小野姫の仲を恨むが、景清から「小野姫とはもう口も聞かない」という言葉を聞かされて、それを信じる[22][25]。その後、景清を密告するよう兄の「伊庭の十三広近」から持ちかけられるが、景清を信じる阿古屋は、それを断って景清に対する愛情を切々と訴える[22][25]。
しかしその直後、小野姫から景清への手紙が届き、景清の言葉が嘘であった事がわかる[22][25]。阿古屋は激しく嫉妬し、兄による景清の密告を黙認してしまう[22][25]。これにより景清の元に追手が現れ、先行作品と同様、景清自身は追手から逃れるものの、代わりに舅の大宮司が捕まった事により、景清は自首して牢に入れられる[22][25]。
そこへ阿古屋が二人の子供を連れて現れ、「密告の黙認は嫉妬に狂ってしまっての行動で、裏切ったわけではない」という趣旨の事を述べ、自害を覚悟して必死に景清に詫びるが、景清は許さない[22][25]。絶望に打ちひしがれた阿古屋は、二人の子供を手に掛け、自らも自害する[22][25][24]。
このように、子供を手にかけるのは、先行作品と違い、景清ではなく阿古屋である。阿古屋の強い愛が一転して憎しみと絶望に変わる、その普遍性が現代の我々の心をうち、高く評価されるが[24]、当時の人々には理解を超えるものであったかもしれない[24]。
なお、景清の自首の前に、小野姫も大宮司の助命のために牢を訪れている[22][25]。小野姫は景清の居場所を暴露するよう激しい拷問を受けるが、それに耐え抜き、彼女と大宮司を助けるべく景清が自首したときにはそれを悔やんでいる[22][25]。このように小野姫は景清を裏切った阿古屋とは対比される存在として描かれている[22]。この場面はのちに阿古屋の精神的葛藤と結びつき、『壇浦兜軍記』の「阿古屋の琴責」として趣向を変える形で現れた[21]。
本作ではこの後、先行作品と同様の逸話が展開する。すなわち、景清が牢を破って再び牢に戻る事、景清の断首の際に千手観音が身代わりになる事、盲目になる事、頼朝から許されて日向国宮崎の庄を与えられる事が描かれる[22][25]。盲目になる理由は幸若舞と同様、頼朝暗殺の執念を断つためであるが[25]、この後清水観音の参詣で視力を回復する逸話はなく[22][25]、これは悲劇の効果を持続させるためだと思われる[22]。
その他の逸話・伝承
涙池(泪池)(現在の大阪市東淀川区、小松公園)には以下の物語が伝わっている。景清が大日房能院に匿ってもらった折、「(景清が好きな)そばを打て」(但し、当時打ち蕎麦は存在しない)という下男に対する大日坊の言葉を「景清を討て」と聞き間違え、大日坊を斬ってしまい、過ちに気づいて血のついた刀を涙を流しながら池で洗い、兜を脱ぎ捨てて去ったという[26][27]。
各地の景清伝説
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この節に雑多な内容が羅列されています。
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- 高照寺観音堂(岐阜県海津市、景清が肌身に付けている守り仏である木彫観音立像)
- 景清産湯伝説(常陸國府中六井・室ヶ井、茨城県石岡市国府)
- 景清屋敷(茨城県石岡市貝地2-7-8)
- 景清塚(茨城県石岡市貝地2-6-14)
- 景清陣屋(千葉県木更津市)
- 景清身代り観音(千葉県いすみ市・清水寺)
- 景清の土牢(神奈川県鎌倉市)
- 景清寺(新潟県新潟市)
- 景清社(愛知県名古屋市熱田区)
- 尾張・景清屋敷跡、芦沢の井、常福寺(愛知県大府市吉田町)
- 景清屋敷(三重県伊勢地方北部各地)
- 景清観音(三重県伊賀市)
- 景清眼洗いの井戸(滋賀県彦根市)
- 景清道(滋賀県湖東地方)
- 桑実寺の「景清の背比べ石」(滋賀県近江八幡市)
- 景清爪形観音(京都府京都市東山区・清水寺)
- かぶとみち(かぶと公園)(大阪市東淀川区)
- 血の池(泪の池)(大阪府吹田市)
- 景清門(転害門)(奈良県奈良市・東大寺)
- 景清地蔵堂(奈良県奈良市)
- 月山富田城(島根県安来市)
- 大田の首なし地蔵、景清埋蔵金伝説(広島県東広島市・安芸津)
- 景清穴(山口県美祢市・秋吉台)
- 景清護身観音、景清の目洗い井戸(山口県周南市・川崎観音)
- 平景清と郎党の墓(大阪府大阪市淀川区西中島・光用寺)
- 平家塚(山口県熊毛郡上関町・祝島)
- 生目神社(宮崎県宮崎市・生目)、景清廟(同・大宮)
- 景清ノ墓(鹿児島県曽於市)
- 景清さんの墓(島根県安来市荒島町・東養寺五輪塔)
- 平景清公の墓(鳥取県東伯郡湯梨浜町・長伝寺五輪塔)
- 涙池(大阪市東淀川区小松公園、昭和初期に池は埋め立てられている)
● 生目八幡神社 旧名 土穴若宮神社(福岡県宗像市土穴2丁目12 神郡宗像摂末社)平景清公が壇ノ浦の戦いの後、日向国に配流される際、眼病を患い、この地で平癒祈願したとの伝承有り。
景清を題材にした作品
景清物
古典芸能において、「景清」または「何某誰々実ハ景清」が登場する作品を、一括して景清物(かげきよもの)と呼ぶ。
- 景清
アーケードゲーム
『源平討魔伝』(ナムコ、1986年)では、壇ノ浦で討死した景清が地獄から蘇り、魔界源氏を率いる頼朝を討つために戦うという物語が描かれている[31][32]。この作品は、景清を主人公とした創作の中でも特に異色な設定で知られている。
脚注
注釈
出典
- 1 2 “平景清(タイラノカゲキヨ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2026年3月11日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 小林保治 2007, p. 191-192.
- ↑ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 19頁。
- ↑ 「一の谷の戦い 一 熊谷直実・平山季重の先陣 治承三年(一一八四年)二月七日条(巻第三)」『吾妻鏡』KADOKAWA〈ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)〉、2021年11月20日。ASIN B09L7H7KSN。ISBN 978-4044004071。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 “平景清(タイラノカゲキヨ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2026年3月10日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 田代慶一郎 1979, pp. 94–95.
- 1 2 3 田代慶一郎 1979, pp. 100–101.
- 1 2 3 4 “能・演目事典:景清:あらすじ・みどころ”. www.the-noh.com. 2026年3月10日閲覧。
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- 1 2 3 4 5 西尾邦夫 1988, p. 114.
- 1 2 3 4 5 田代慶一郎 1979, pp. 121.
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- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 “景清(全文版)”. こうわか舞 (2018年12月7日). 2026年3月10日閲覧。
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- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 西尾邦夫 1988, pp. 124–128.
- ↑ 児玉(1974, 改2005)pp.501-513
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- ↑ 三善貞司『わが町昔さが誌』コミュニティ企画、1989年、56-59頁。
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- ↑ コトバンク・壇浦兜軍記
- ↑ コトバンク・鐘入解脱衣
- 1 2 “海老蔵が語る、通し狂言『壽三升景清』|歌舞伎美人”. 歌舞伎美人. 2026年3月17日閲覧。
- ↑ “アーケードアーカイブス 源平討魔伝”. アーケードアーカイブス公式サイト. 株式会社ハムスター. 2025年7月20日閲覧。
- ↑ “源平討魔伝”. ゲーム文化保存研究所. 2025年7月20日閲覧。
参考文献
- 西尾邦夫 (1988). “叙事詩から悲劇へ”. 国士舘大学文学部人文学会紀要 21.
- 田代慶一郎『景清と蝉丸: 古典芸能の人間像』国書刊行会〈比較思想・文化叢書〉、1979年1月15日。 ISBN 978-4336021014。
- 小林保治『平家物語ハンドブック』三省堂、2007年2月1日。 ISBN 978-4385410524。
- 児玉幸多『日本の歴史16 元禄時代』中央公論新社〈中公文庫〉、1974年5月。 ISBN 978-4122046191。
- 三善貞司(1989)『わが町昔さが誌』コミュニティ企画
- 稲垣泰平(2008)『シリーズわがまち 淀川右岸を散歩して「歴史散歩」の記録』文芸社
関連項目
平景清(たいらの かげきよ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 14:25 UTC 版)
「うらたろう」の記事における「平景清(たいらの かげきよ)」の解説
千代の従者で筋骨隆々とした老山伏。千代からは「ジイ(爺)」と呼ばれる。うらたろうの住む山で主の一本ダタラに殺されたものの、千代の身を案じる余り、人魂状の霊魂と化して復活、二人の旅に同行する。
※この「平景清(たいらの かげきよ)」の解説は、「うらたろう」の解説の一部です。
「平景清(たいらの かげきよ)」を含む「うらたろう」の記事については、「うらたろう」の概要を参照ください。
平景清と同じ種類の言葉
- 平景清のページへのリンク