高木兼寛とは? わかりやすく解説

高木兼寛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 08:15 UTC 版)

高木 兼寛(たかき かねひろ[注釈 1]嘉永2年9月15日1849年10月30日〉 - 大正9年〈1920年4月13日)は、日本海軍軍人、最終階級は海軍軍医総監少将相当)。医学博士男爵東京慈恵会医科大学の創設者。


注釈

  1. ^ 名字の読みが「たかぎ」と表記されることや、名の兼寛は音読みで「けんかん」と読むこともある[2]
  2. ^ 高木兼寛が海軍にカレーを取り入れたことの根拠や出典が記載されておらず史実なのかは不明。
  3. ^ 昭和の大合併前の東諸県郡穆佐村、昭和の大合併後から平成の大合併前までは東諸県郡高岡町
  4. ^ 有志共立東京病院とは別に高木が退役後設立した個人病院。高木の死後社団法人東京慈恵会に経営が移り、戦後東京慈恵会医院(東京慈恵医院の後身)と共に現在の東京慈恵会医科大学附属病院となっている。
  5. ^ のちに渡辺仁建築事務所に商号変更。
  6. ^ 高木家では兼寛の方針によって男子は高等師範学校附属に、女子は学習院に学ぶと決められていたが、兼寛は成蹊小学校の創立者中村春二の設立の趣旨に賛同し、以後、男子は成蹊に入学することとなった。

出典

  1. ^ 穆園(ぼくえん)広場
  2. ^ "高木兼寛". 日本大百科全書(ニッポニカ) 三浦豊彦執筆. コトバンクより2022-7-9閲覧 {{cite encyclopedia}}: |accessdate=の日付が不正です。 (説明)
  3. ^ 高木 兼寛|宮崎県郷土先覚者”. www.pref.miyazaki.lg.jp. 2022年12月7日閲覧。
  4. ^ よこすか海軍カレーとは”. カレーの街よこすか - カレーの街よこすか公式サイト. 2022年12月7日閲覧。
  5. ^ 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年、224頁。
  6. ^ 高木 兼寛|宮崎県郷土先覚者
  7. ^ 高木喜寛 著、佐藤謙堂 編『高木兼寛伝』(1922)、35頁
  8. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、5頁、29頁。
  9. ^ 『官報』第476号、大正3年3月3日。
  10. ^ 高木喜寛 著、佐藤謙堂 編『高木兼寛伝』(1922)、26頁
  11. ^ 学校法人慈恵大学 歴史~建学の精神
  12. ^ 東京慈恵会医科大学付属病院 病院沿革
  13. ^ 芳賀佐和子、住吉蝶子「有志共立東京病院看護婦教育所 最初の看護指導者ミス・リードの生涯」『東京慈恵医科大学雑誌』131(2016):49-58 (II. リードのフルネームについて、VI. リードと高木兼寛との関わりについて)
  14. ^ 白崎 昭一郎 (1998) 「森 鴎外 もう一つの実像」吉川弘文館 ISBN 4-642-05439-1
  15. ^ 高木兼寛(たかき かねひろ/ 脚気対策の功労者 高木兼寛(たかき かねひろ) | 熊本大学大学院 生命科学研究部 環境生命科学分野 公衆衛生学講座”. 熊本大学大学院 生命科学研究部 環境生命科学分野 公衆衛生学講座. 2022年12月7日閲覧。
  16. ^ 松田、2008、P.454
  17. ^ 松田、2008、P.454-456
  18. ^ 「裏屋ノ建設ハ衛生上及経済上ニ害アリ」明治17年、「東京衛生事務ノ拡張ハ市区ノ改正ヲ要ス」明治18年、『大日本私立衛生会雑誌』。
  19. ^ 宮﨑神宮の由来|宮﨑神宮(公式ホームページ)”. 宮﨑神宮. 2022年12月12日閲覧。
  20. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)60頁
  21. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、560頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  22. ^ a b 『高木兼寛伝』(1965)、p.329
  23. ^ a b 『高木兼寛伝』(1965)、p.330
  24. ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
  25. ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
  26. ^ 『官報』第2584号「叙任及辞令」1892年2月15日。
  27. ^ 『官報』第5098号「叙任及辞令」1900年7月2日。
  28. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  29. ^ 『官報』第2398号「叙任及辞令」1891年6月29日。
  30. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  31. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
  32. ^ 挙式・披露宴におけるブライダルビジネスの現状と戦略田澤 昌枝 境 新一 東京家政学院大学紀要 第 44 号 2004 年
  33. ^ 古川明「高木喜寛伝」『日本医史学雑誌』第24巻第2号、日本医史学会、1978年4月、141-142頁、doi:10.11501/3359280“兼寛の長男高木喜寛……有島武の次女志摩子と結婚” 
  34. ^ a b c d 「タ之部」『華族家庭録 昭和11年12月調』華族会館、1937年3月20日、242-243頁。doi:10.11501/1046816 
  35. ^ a b c d e 「高木秀寛」『人事興信録』(第25版 下)人事興信所、1969年12月15日、139頁。doi:10.11501/3044854 
  36. ^ 従五位之部」『華族名簿 昭和3年5月31日調』華族会館、1928年6月28日、247頁。doi:10.11501/1916329。"男爵高木喜寛嗣子 高木秀寛"。 
  37. ^ 「高木秀寛」『建設界紳士録 関東編』城南書院、1962年、631頁。doi:10.11501/2428541 
  38. ^ 田園調布五丁目」『住居表示旧新・新旧対照表 19(昭和45年9月1日施行)』東京都大田区、1970年、236頁。doi:10.11501/3048172 
  39. ^ 「潮田定一」『大衆人事録 第26版 東日本編』帝国秘密探偵社、1968年、218頁。doi:10.11501/3013517。"長女茂子学習院女子短大卒高木公寛に嫁す"。 
  40. ^ “都内で「ビタミンの父」高木兼寛をしのぶ会”. 宮崎日日新聞. (2023年4月16日). https://www.the-miyanichi.co.jp/kennai/_70743.html. "ひ孫の高木公寛さん(88)、やしゃごの高木正寛さん(59)" 
  41. ^ a b 2018年11月25日 惜別 追悼の辞 「高木家と高木敬三先生の同窓会における足跡を慈大新聞でたどる」”. 東京慈恵会医科大学同窓会. 2023年3月25日閲覧。
  42. ^ 小坂善太郎『人事興信録. 第13版(昭和16年) 上』
  43. ^ 高木兼寛の女子教育論 松田誠、『高木兼寛の医学V 』 2013-12-20
  44. ^ 『人事興信録』15版下「樋口一成」
  45. ^ 樋口 一成(読み)ヒグチ カズシゲコトバンク






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