クープラン, フランソワ
フランスの作曲家、クラヴサン奏者、オルガニスト。クープラン一族の中で最も有名で、大クープランと呼ばれる。父のシャルル・クープランと伯父のルイ・クープランはパリのサン・ジェルヴェ教会のオルガニストであった。
1679年、10歳で父を失う。
その後教会オルガニストとして活動し、93年には国王のオルガニストという地位を得る。クープランは宮廷に出入りし、王家の人々にクラヴサンを教えた。また、宮廷作曲家として室内楽曲や王室礼拝用の宗教曲を作曲した。1713年、〈クラヴサン曲集第1巻〉が出版される。クラヴサン曲集は第4巻(1730年)まで出版され、合計230曲以上がおさめられている。
フランソワ・クープラン
(FrançoisCouperin から転送)
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フランソワ・クープラン(François Couperin 発音例, 1668年11月10日 パリ - 1733年9月11日 同地)は、バロック時代のフランスの作曲家。多くの音楽家を輩出したクープラン家の中でも特に有名な人物であり、大クープラン (Couperin le Grand) として知られる[1]。
- ^ 大 (le Grand) という形容辞が生前から通用していたのかは不明だが、1780年にはラ・ボルトによる「le Grand と異名を付けられたフランソワ・クープラン」という記述がある。
- ^ なお多くの作品の標題に女性形の定冠詞 "la" がついているが、それは必ずしも題材が女性であることを意味しているわけではなく"pièce"(曲)という女性名詞が省略されていると考えることができる(ピエール・シトロン『クープラン』p. 167; 松前紀男『クープラン:その家系と芸術』p. 226; ジェーン・クラーク, デレク・コノン『人生の鏡』p. 17. )。
- ^ ルイの弟にはもう一人シャルルよりも年長のフランソワ・クープラン (c. 1631-c. 1701) がおり、本項の大クープランとは同姓同名であるため混同しないよう注意が必要である。この大クープランの伯父のフランソワもオルガニスト、クラヴサン奏者で、音楽教師であったが、ティトン・デュ・ティエによれば他の二人の兄弟にくらべると音楽の才能には恵まれていなかったとされている。「良いぶどう酒に目がない小柄な男で、クラヴサンのそばにぶどう酒の瓶と少々のパンさえあれば、嬉々としてレッスンを引き延ばし、それは瓶にぶどう酒がつぎ足されるかぎり続くのが常であった」。かつて大クープランのオルガン曲が彼の作品であるとされたことがあったが、これは誤りであることがわかっている。彼の本当の作品については不明である。アルマン=ルイ・クープランは彼の孫。
- ^ クープランは結局この地位に正式に就任することはなく、1737年に娘のマルグリット・アントワネット・クープランがダングルベールの地位を引き継いだ。
- ^ 『ニューグローヴ世界音楽大事典』日本語版、講談社、1995年。
- ^ 『クラヴサン曲集第2巻』は出版年の記載がないが、『クラヴサン奏法』の第2版は『クラヴサン曲集第2巻』の出版を踏まえた内容に改訂されており、第2巻に収録されている曲の運指についての解説が追加されている。
- ^ ノルベール・デュフルク『クラヴサン』白水社、1978年。
- ^ 森の精、シルウァーヌス。
- ^ いたずら好きの妖精。
- ^ テュレンヌ元帥の銃兵部隊は灰色の制服で知られた。
- ^ 『ピエール・パトラン先生』は15世紀の笑劇。口先上手な人物の代名詞。
- ^ ボヘミアの伯爵でリュート奏者のジャン・アントワーヌ・ロジ Jean Antoine Logi を指していると考えられる。
- ^ en:Fanchon Moreau オペラ歌手。
- ^ マルメロの果汁から作った整髪料。
- ^ en:Françoise-Charlotte de Senneterre Ménétou 女性音楽家。幼少時より非凡な音楽の才能を示し天才少女として知られた。1689年に9歳で王の御前で演奏し、1691年11歳の時に最初の曲集を出版した。
- ^ en:Élisabeth Alexandrine de Bourbon 通称 Mademoiselle de Sens。
- ^ Ménestrandise(吟遊詩人組合)が伏せ字にされている。パリの吟遊詩人組合が全ての音楽家に加盟を強要するという事件があり、1693年のこれに抗議する請願書にクープランも署名している。
- ^ 婦人のドレスの袖口の飾り。
- ^ ルイ15世の摂政オルレアン公フィリップ2世はジャン=バティスト・サンテールの絵画においてミネルヴァに扮する女性を伴って描かれている[1]。
- ^ ヴィオール奏者のアントワーヌ・フォルクレ。フォルクレも「クープラン」 La Couperin という曲を残している。
- ^ マイヨは綱渡りで有名な一座。
- ^ ドミニコ会修道士を指す Jacobin が伏せ字にされている。
- ^ ルイ15世の妃であるマリー・レクザンスカ。彼女はポーランド出身であり、そのためこの曲の第3部は「ポーランド風のエール」と題されている。
- ^ クープランは Siur de Crouilly (クルイイの殿)という土地の所有権を示す称号を先祖から受け継いでいた。
- ^ 嬰ヘ短調から中間部では嬰ヘ長調に転調し、当時の記譜法では調号が♯が4つから9つとなり視覚的にも大変刺々しい。
- ^ 1707年に出版されたバラールのクラヴサン曲選集に収録 (Christophe Ballard, Pièces choisies pour le clavecin de différents auteurs, 1707)。
- ^ ヨハン・ゲオルク・ピゼンデルによる手稿譜 (D-Ds, Mus. 2162-Q-2) が2005年に発見されたことで新たに知られるようになった。それまで不明であった『諸国の人々』の「神聖ローマ帝国人」の原曲であると考えられる。
- 1 フランソワ・クープランとは
- 2 フランソワ・クープランの概要
- 3 参考文献
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