APの追撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/20 15:42 UTC 版)
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、アヴァスは政府発表記事を積極的に海外に配信した。だが、ヴォルフが配信するドイツ政府の発表記事を黙殺したことから、特に南米地域で反発を招いた。 これを見たAPは、再び南米市場を狙ってアヴァスとの直接交渉に乗り出した。大戦終結直前の1918年11月8日、両者は協定を締結した。協定では、アヴァスから記事を受信している南米の新聞社がAPに乗り換えた場合、アヴァスが蒙った損失分をAPは補償することとされた。こうした厳しい条件ながら、APは南米進出の糸口をつかみ、対してアヴァスは、長く独占してきた金城湯池を巡る競争に曝されることとなった。 翌月、4社は新10ヶ年協定に調印した。敗戦国の通信社となったヴォルフは勢力圏を国内に限定され、アヴァスとロイターがヨーロッパ市場を手中に収めた。アヴァスとロイターは、この協定に沿って1921年末に結成された世界通信社連盟 (World League of Press Associations) の盟主として、ニュース交換に絶大な影響力を及ぼした。 この間、APはなおも南米市場の開放を主張して、アヴァスに執拗な要求を続けた。強大な勢力に成長していたAPの要求に屈したアヴァスは1922年9月、APと新協定を締結し、APがアヴァスに対して負っていた損失補償の義務が撤廃された。
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