1度目のロッテ監督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:54 UTC 版)
「ボビー・バレンタイン」の記事における「1度目のロッテ監督時代」の解説
1995年、ロッテのゼネラルマネージャーに就任した広岡達朗に請われ、同球団の監督に就任(背番号80)。 選手の潜在能力を引き出し、当時パ・リーグ5連覇中の西武ライオンズを上回る2位に導く(チームとしても10年ぶりのAクラス)。同年阪神・淡路大震災からの復興の象徴であったオリックス・ブルーウェーブの本拠地胴上げを阻止する3連勝(9月15日 - 9月17日)など、今までのチームカラーを一掃した。また、震災へのチャリティーのために「ドリーム・ゲーム(日本人選手選抜対外国人選手選抜)」を提案し、外国人チームの監督を務めた(日本人チームの監督は王貞治が務めた)。 しかし広岡や尾花高夫・江藤省三ら一部のコーチとの確執が表面化し、1年で解任された。広岡はバレンタインについて「バレンタインは頭は悪くない。顔を合わせて話すときは問題ないんだが、記者の前だといい顔をしたいのか別の話をする。あれには困った」と証言している他、「大リーグ方式を持ち込んでスタートでつまずき、SOSを出してきたので、「ここは日本であることを忘れてはいけない」とほんの少し野球を注入すると、この年2位に浮上した。私がGMになってからはロッテの選手はもちろん、監督であるバレンタインにも人前での喫煙を禁止すると素直に応じ、監督室以外では我慢していた。」とも述べている。
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