鹿島城 (肥前国)とは? わかりやすく解説

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鹿島城 (肥前国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/05 17:48 UTC 版)

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鹿島城
佐賀県
現存する鹿島城大手門
別名 鹿島新城
城郭構造 平城
築城主 鍋島直彜
築城年 文化4年(1807年
主な城主 鍋島氏
廃城年 1874年明治7年)
遺構 門、石垣
指定文化財 赤門、大手門
(県指定文化財[1]
位置 北緯33度6分10秒 東経130度5分36秒 / 北緯33.10278度 東経130.09333度 / 33.10278; 130.09333
地図
鹿島城
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赤門
家老原忠順の屋敷の門・塀

鹿島城(かしまじょう)は、佐賀県鹿島市高津原城内にあった日本の城平山城)。

立地・構造

佐賀県鹿島市多良岳の北東にある山地東端の丘陵上に位置する。高津原と呼ばれる丘陵は鹿島川に相対し標高は10 - 30 m程度ある。外郭は南北650 m・東西370 mで、家臣屋敷地も含まれ、その領域は後に郭内と呼ばれ、現在の自治区である城内区とほぼ同じ。本丸は南側の高所にあり、高津原屋敷や鹿島館と呼ばれた。支藩の政庁のため表向きは屋敷や館(陣屋)と称する一方、城郭の性質を備えていた。後年は「鹿島城」の通称が広まっている[2][3][4][5][6]

堀および大きな柵のある土塁を巡らせた城構えで、石垣は一部だけに配置されていた。建物は高いものでも2階建てだった。現存する大手門と赤門は佐賀県重要文化財に指定されているが、共に装飾金具の少ない簡素な造りの反面複雑な木組で、小藩としては大きな門構えであった。他に裏手の搦手門、東西の東門・西門があった。大手門と赤門の間は鍵型に曲がる登城路で、これに面して家臣屋敷があった。登城路と部分的に残る土塁は当時の景観を伝えるほか、本丸南には武家屋敷も残っている[2][3][4][7][6][8]

歴史

佐賀藩支藩である鹿島藩は初代・鍋島忠茂から9代・直彝まで常広城にいたが、鹿島川と塩田川の間の沖積地のため水害を受けることが多かった。このため直彜は文化元年(1804年)に幕府と本藩に移転を願い出て、翌文化2年(1805年)5月に許可を得た。常広城の居館を移転し、文化4年6月(1807年)に鹿島城は完成している。なお、翌文化5年の竣工と判明している赤門の例が示すように、一応の完成を見た後にも工事は行われたと考えられる[2][3][4]。文化6年には歴代鹿島藩主を祀る松蔭神社も常広城内から遷座した[9]

その後1874年明治7年)の佐賀の乱の際に鹿島城は焼失した。官軍の侵攻を目前にして藩士が自ら火を放ったと伝えられている。現在、跡地は本丸周辺が佐賀県立鹿島高等学校赤門学舎、武家屋敷地が鹿島高等学校大手門学舎(旧佐賀県立鹿島実業高等学校)、東部が旭ヶ岡公園になっている[2][3][4][6]

遺構・文化財

赤門

高津原屋敷の表門で本丸御殿の正門にあたる。切妻造・桟瓦葺の薬医門で、向かって正面右に番所が付属、両側に漆喰塗りの土塀が続く[3][4][7]

丹塗りのため「赤門」と呼ばれるようになった。現在は鮮やかな朱色で、古い時代にはベンガラ色だったが、丹塗りが建築当初からなのかは判明していない[3][4][7]

赤門は領主の門であり、藩士はその傍の通用門を使用したとされる[6]。現在は鹿島高等学校の校門として使用されており、1932年(昭和7年)からその名を冠して学校祭は「赤門祭」と称している[3][7]

修理が行われた際に「文化五戊辰閏六月廿八日」の日付を記した棟札が発見されている。その後「鹿島城赤門及び大手門」として1958年(昭和33年)1月23日に佐賀県重要文化財に指定された。続塀と棟札が附指定されている[7][1]

大手門

正面入口の門。切妻造・本瓦葺の高麗門で、背後に小屋根付きの控え柱が付き、赤門と同様に両側に漆喰塗りの土塀が続く[3][4][7]

1952年(昭和27年)の塗り替え以降現在まで丹塗りだが、それ以前は黒く塗られていた[4][7]

赤門とともに1958年佐賀県重要文化財に指定されている[7][1]

武家屋敷

城域内で搦手門に至る坂道は、片側が本丸部の堀と土手、向かいが武家屋敷の塀と門となっており、城下の静かな景観を残す[3][6]

茅葺きの屋敷は幕末期の家老原忠順の居宅で、鹿島市内で唯一残る家老屋敷。その欅を用いた素木造の門は「武家屋敷棟門」として鹿島市重要文化財に指定されている。門は1985年8月に台風で倒壊した後再建されている[10]

脚注

  1. ^ a b c 県指定(建造物の部)01”. 佐賀県文化財データベース. 佐賀県 (2021年8月19日). 2023年12月11日閲覧。
  2. ^ a b c d 『角川日本地名大辞典』、「旭ケ岡公園」頁。(参考:JLogos
  3. ^ a b c d e f g h i 『佐賀県の歴史散歩』、144-146頁「鹿島城」
  4. ^ a b c d e f g h 鹿島の歴史を歩こう』鹿島市教育委員会 生涯学習課、2018年3月、2-5頁https://www.city.saga-kashima.lg.jp/main/21155.html 
  5. ^ 鹿島館跡」『平凡社「日本歴史地名大系」』https://kotobank.jp/word/%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E9%A4%A8%E8%B7%A1#w-3370409コトバンクより2023年12月11日閲覧 
  6. ^ a b c d e 『鹿島市史』、44-47頁
  7. ^ a b c d e f g h 鹿島市の文化財、p.6「鹿島城赤門及び大手門」、2023年12月11日閲覧
  8. ^ 鹿島市史編纂委員会 編『鹿島市史 中巻』鹿島市、1974年、44-47頁。 NCID BN03959888 
  9. ^ 松蔭神社」『平凡社「日本歴史地名大系」』https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E8%94%AD%E7%A5%9E%E7%A4%BEコトバンクより2023年12月11日閲覧 
  10. ^ 鹿島市の文化財、p.20「武家屋敷棟門」、2023年12月11日閲覧

参考文献




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