高氏の安芸国下向と南北朝の騒乱、室町時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/24 07:46 UTC 版)
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南北朝期の当主毛利時親は、ひ孫の毛利師親(後の毛利元春)を高師泰の側に仕えさせ、勢力の拡大を図った。師親の「師」字は高師泰から偏諱を受けたものであり、観応の擾乱の後に高師武が国司荘に下向すると、師武はその縁もあり、毛利氏に従属して譜代家臣となった。 その後は一貫して毛利氏の重臣として活動し、戦国時代初期の当主国司有純は毛利豊元の娘を妻とし、毛利松寿丸(後の毛利元就)の後見人となった。明応8年(1499年)、国司有相は安芸武田氏の配下であった温科国親が反乱を起こした際にはその鎮圧にあたり、足利義稙を奉じた大内義興の上洛軍にも毛利興元に従って上洛した。船岡山合戦でも他の諸将とともに活躍した。 毛利氏の当主であった毛利幸松丸が大永3年(1523年)の鏡山城の戦いの直後に急逝したため、毛利元就に家督を継承させるべく、毛利氏宿老十五人が連署して元就へ志道広良、福原広俊らとともに家督相続を要請した。天文11年(1542年)に国司有相は死去し、家督は嫡男の元相が相続した。
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