高橋鑑種
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 16:25 UTC 版)
永禄9年(1566年)、鑑種は、以前から筑前・豊前に侵出していた毛利元就に内通し、大友氏当主の大友義鎮(後の大友宗麟)に叛いた(この時、立花山城主立花鑑載も共に元就に内通し、義鎮に叛いている)。鑑種は、秋月種実をはじめ原田氏、筑紫氏、宗像氏などと共に毛利氏の九州派兵を要請した。戸次鑑連を指揮官とする大友氏の主力として最後まで奮戦したのは豊後の朽網氏、一万田氏、筑後の蒲池氏、田尻氏、溝口氏、三池氏、問註所氏であった。 永禄12年(1569年)に尼子勝久の家臣山中幸盛が山陰に攻め込んだために、元就は九州から撤退し、そのため後ろ盾を失った鑑種は進退窮まり義鎮に降る。高橋氏は所領を没収され、再度断絶の危機を迎える。
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