高木家 (男爵家)とは? わかりやすく解説

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高木家 (男爵家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/21 19:13 UTC 版)

高木家
丸に三つ引き紋
種別 武家
士族
華族(男爵)
主な根拠地 東京市
凡例 / Category:日本の氏族

高木家(たかぎけ)は、武家士族華族だった家。薩摩藩士の家系で、明治後半に海軍軍医総監を務めた高木兼寛がその勲功により男爵が授けられた[1]

沿革

高木兼寛男爵

高木家は慶長年間に薩摩島津氏に仕えるようになり、江戸時代を通じて代々が薩摩藩士だった[1]。高木喜助の子として日向国東諸県郡に生まれた高木兼寛は、幕末に医学を学び、戊辰戦争では官軍の従軍医師として仕えた後、藩立開成学校の医学校長となった[1]

その後明治5年に海軍省に入省、中軍医に補され、軍医の道を進む[1][2]。明治8年(1875年)にイギリスのセント・トーマス病院医学校に留学[3]。帰国後は大軍医、少医監、中医監、大医監と進級、その間に海軍病院長、海軍省医務局長、海軍軍医本部長などを歴任、明治18年(1885年)に海軍軍医総監となった。明治25年(1892年)に予備役に編入されると貴族院勅選議員に勅任された(終身任期)[2][4]。明治38年(1905年)3月3日には多年の功により男爵が叙爵された[注釈 1]。兼寛は東京慈恵会医学専門学校(後の医科大学)の創立者でもある[1]

大正9年(1920年)4月13日に兼寛が死去すると、家督を相続した長男の喜寛が男爵を襲爵。喜寛も父同様セント・トーマス病院医学校に留学し、医学博士号を取得した医学者で、慈恵会医科大学長を務めるとともに、大正12年(1923年)6月に貴族院の男爵議員補欠選挙に立候補して当選、以後公正会に所属して再選を重ね、貴族院議員を都合3期半23年にわたって務めた[1][5]。戦前昭和に高木男爵の住居は東京市麻布区東鳥居坂町にあった[4]

系譜

平成新修旧華族家系大成 下巻』に拠る[1]

高木喜助
 
 
 
 
 
 
兼寛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
喜寛 兼二 舜三
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
秀寛 園子[† 1] 兼光 美代[† 2]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
公寛 [† 3] 彦二
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
正寛 直彦
  1. ^ 田中幾之助夫人
  2. ^ 久保田瑞穂夫人
  3. ^ クロード・シャロー夫人

補注

注釈

  1. ^ 『授爵録』(明治34年~38年)には海軍省からのものとみられる高木兼寛の授爵を請願する書類が添付されており、そこには高木が海軍軍医として脚気対策に尽力したことや、貴族院勅選議員として衛生行政に尽力したことなどを理由とした授爵の請願が綴られている。明治38年3月1日付けの宮内省の審査書類はその請願を認め、多年の功により同人に授爵あるよう裁可を仰ぐことを決定、即日裁可があり、同3日付けで兼寛に男爵が授けられた[2]

出典

参考文献




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