高恒_(清)とは? わかりやすく解説

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高恒 (清)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/01 10:24 UTC 版)

高恒(こう こう、康熙56年(1717年) - 乾隆33年(1768年))は、中国代の政治家、大臣、官員、外戚。字は立斋。父は文淵閣大学士高斌満洲鑲黄旗人。姉は乾隆帝の妃嬪慧賢皇貴妃

経歴

初期

乾隆帝の治世初期、高恒は恩蔭により戸部主事(財政部門の官僚)に任じられ、さらに昇進して戸部福建郎中となった。乾隆15年(1750年)には山東巡塩御史の監督官)に任じられ、その後、山海関淮安の税関、張家口の税務を監督し、芦塩政(塩の管理官)や天津総兵(天津の軍総司令官)を歴任した。乾隆22年(1757年)には両淮塩政(両淮地方の塩務を統括する役職)に就き、8年間その職を務めた。乾隆29年には上駟院卿に任じられたが、引き続き両淮塩政の職を兼務した。

乾隆30年(1765年)、従兄の高晋が両江総督に任じられたため、職務上の衝突を避けるため召還され、戸部侍郎を代理で務めた。その後、乾隆30年から33年まで総管内務府大臣を務めた。また、乾隆32年には正白旗満洲副都統および吏部侍郎を代理で務めた。

両淮塩政時代の業績

高恒は両淮塩政在任中、揚州の瘦西湖に五亭橋(別名:蓮花橋)を建設し、満月の夜には橋のアーチごとに月が映り込むような美しい景観を作り出した。また、虹橋(別名:紅橋、大虹橋)を再建し、橋上に亭(あずまや)を設けた(『揚州画舫録』巻10)。乾隆22年には瘦西湖の新河開削を主導し、平山堂まで水路を通し、両岸に庭園を建設した。乾隆24年には揚州市河および護城河の浚渫工事を完了した。しかし、民間では「何も知らず、ただ財を貪ることのみが目的である」と非難されていた。

乾隆30年(1765年)には、劉茂吉(字:其暉)が『揚州両城図』を描き、高恒が記録を加えた(『揚州画舫録』巻9)。また、大明寺の平山堂を修復し、地理風水の専門家である欧陽洽(北宋の文学者欧陽脩の子孫)に方位や地勢の調査を依頼した(『揚州画舫録』巻16)。さらに、揚州北郊の名所「双峰雲棧」の環緑閣の棧道木橋の石壁に「松風水月」という文字を刻んだ(『揚州画舫録』巻16)。

両淮塩引事件と処刑

乾隆33年(1768年)、両淮塩政の尤抜世(兄は内務府正黄旗漢軍江蘇巡撫・安寧)が提出した奏折により「両淮塩引事件」が発覚した。高恒と普福(前任の両淮塩政)は、塩の専売権を私的に売却し、不正に利益を得た罪で処刑された。両淮塩運使の盧見曾もこの事件に連座した。

大学士の傅恒(乾隆帝の最初の皇后である孝賢純皇后の弟)は、高恒の命を助けるよう乾隆帝に嘆願したが、乾隆帝は「もし皇后の兄弟が罪を犯したならば、どうするべきか?」と答え、傅恒はそれ以上何も言えなかった。この事件では多くの関係者が処罰され、議政大臣であり吏部尚書兼九門提督(首都の防衛責任者)であった托恩多も、高恒や普福らの没収資産を不正に買い取ったため罷免された。

高恒の息子・高樸も、別件の「葉爾羌玉石事件」で処刑された。四男の高杞は、順貴人(乾隆帝の妃)の姉と結婚した。

学問・文化活動

高恒の父・高斌が両淮塩政であった時代、高恒は桐城派の学者・左廉(字:策頑、号:賁趾)に師事した。左廉の祖父は浙江武康県知県で、曾祖父は明朝の忠臣・左光斗であった(『桐城耆旧伝』巻6)。

高恒は、父・高斌の依頼で『固哉草亭集』(詩文集)を編集し、乾隆27年(1762年)に出版した。また、翰林院の学者・錢陳群は、高恒が山海関の監督を務めていた際に詩を贈った(『香樹斎集』)。

両江総督の尹継善も『題高鹾使望雲図』や『舟泊維陽贈高立斋鹾使』という詩を贈っており、高恒の文化活動は広く評価されていた(『尹文端公詩集』巻7、9)。また、高恒は囲碁愛好家であり、范西屏の『桃花泉弈譜』を刊行した。桃花泉は、かつて両淮巡塩御史の曹寅(『紅楼夢』の作者・曹雪芹の祖父)が詩を詠んだ地でもある(『楝亭詩鈔』巻5)。

小説家・夏敬渠とも交友があり、夏は高恒父子に多くの詩を贈っている(『浣玉轩集』巻4)。

高恒の旧邸宅

高恒の旧宅は北京の宝鈔胡同にあったが、乾隆34年(1769年)に乾隆帝の第七皇女・固倫和静公主の邸宅に改築された。その後、清朝末期には蒙古族の親王・那彦図が住み、「那王府」として知られるようになった。

家族

祖父母

祖父:高衍中、内務府郎中兼参領佐領

祖母:李氏、一品誥命夫人の称号を授かる。

父母

  • 父:高斌、清朝の官僚。大学士・河道総督を務め、治水の名臣として知られる。
  • 母:馬氏(父は内務府正白旗漢軍の驍騎校・馬維藩(または馬維范)、祖先に吏部尚書・桑格)。父の二番目の継室。
  • 父の正室:陳氏。
  • 父の最初の継室:祁氏。

兄弟姉妹

  • 長姉:慧賢皇貴妃 - 乾隆帝皇貴妃
  • 次姉:高佳氏 - 大学士鄂爾泰の次男・鄂実(副都統、大大小和卓の戦いで戦死、騎都尉の世職を授かる)に嫁ぐ。
  • 三妹:高佳氏 - 内務府正黄旗漢軍の韓錦(乾隆45年(1780年)庚子恩科進士・詩人法式善の外祖父)に嫁ぐ。
  • 四妹:高佳氏。

  • 妻:那拉氏(父は鑲黄旗満洲・光禄寺少卿兼佐領の徳爾弼)。曾祖は天聡年間に帰順した葉赫出身の頼都。家系には上駟院大臣の常喀や、戸部侍郎の赫成額などがいる。

子女と孫

  • 長男:高樸(?-1778)、鑲黄旗満洲第四参領第二佐領を務め、最終的に都察院左副都御史・兵部右侍郎に昇進。葉爾羌弾劾事件で汚職の罪により処刑される。
  • 次男:高枋、藍翎侍衛。妻は鈕祜禄氏(父は鑲黄旗満洲の托雲、祖父は達色、曾祖父は一等公・法喀)。
  • 三男:高栻
  • 四男:瑪尚阿巴圖魯高杞(字・南有)。一等軽車都尉、内務府郎中を務め、河南巡撫湖北巡撫湖南巡撫熱河都統・烏魯木斉都統・陝甘総督などの要職を歴任。妻は乾隆帝の妃嬪順貴人の姉・鈕祜禄氏。
    • 孫:高焯(字・蓉波) - 嘉慶戊辰科挙人、詩集『蓉波詩草』を著す。
    • 孫:高勳
    • 孫娘:高佳氏 - 側福晋として惇恪親王・綿愷(嘉慶帝の第三子)の妻となる。
    • 孫娘:高佳氏 - 嘉慶己巳恩科進士・鑲藍旗宗室の崇碩に嫁ぐ。
    • 孫娘:高佳氏 - 嘉慶辛未科進士・索綽絡氏奎耀に嫁ぐ。
    • 孫娘:高佳氏 - 頭等侍衛・正藍旗宗室・榮壽に嫁ぐ。
  • 娘:高佳氏 - 正室として鑲白旗満洲烏拉納喇氏の蘇第察に嫁ぐ。継室は李氏(父は正藍旗漢軍・貴州巡撫の李本)、二番目の継室は愛新覚羅氏(父は宗室福明阿)。

参考文献




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