高尾講会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 06:10 UTC 版)
延暦21年(802年)に和気弘世が氏寺の高尾山寺催した天台法門の講会で、最澄も招かれ講師を務める。この講会について『叡山大師伝』は一乗仏教興隆の為と記している。また『伝述一心戒文』などには桓武天皇の意思によって催されたと記されるが、史実性は疑わしい。しかしこの法会の事を聞いた桓武天皇が天台一乗興隆を発願し、同年9月7日に弘世を詔問し、弘世は最澄に相談したとされる。 この時代、仏教宗派は南都六宗に限られていた。特に法相宗と三論宗に多くの学生が集まり、延暦21年正月(802年)の太政官符に「三論、法相、彼此角争」とあるように両宗が衝突していた。こうした抗争を収束させたい朝廷は新しい仏教界の秩序作りを目指す仏教政策を取る事となり、結果として天台宗の開宗が後押しされたと考えられる。
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