馬場祥江
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/24 13:41 UTC 版)
馬場 祥江(ばば よしえ、1937年1月 - )は、1956年のミス・ユニバース日本代表である。
- ^ 「1957年度ミス・ユニバース 各府縣代表50名一覧」『週刊サンケイ』第5巻第28号、扶桑社、1956年、doi:10.11501/1809909、ISSN 0559-9431。
- ^ a b c d 「1957年度ミス・ユニバース日本代表 馬場祥江」『週刊サンケイ』第8巻第29号、産業経済新聞社、1959年7月10日、40-41頁。
- ^ 「馬場さん(会津若松)ミス日本、 晴れて世界大会へ」『福島民報』、1956年6月18日、朝刊。
- ^ a b 「百合姿を使用 ミス日本審査に」『装粧品新聞』第88号、財団法人日本粧業会、1956年7月5日、17頁。
- ^ 特別参加の琉球を含む
- ^ 「ミス・ユニバース ミス・ワールド 日本大会の足跡」『週刊サンケイ』第8巻第29号、産業経済新聞社、1959年7月10日、70頁。
- ^ 「一つふえた日本一、大竹知事 馬場さんを激励」『福島民報』、1956年6月19日。
- ^ 「優勝者と落選者」『週刊サンケイ』第8巻第29号、産業経済新聞社、1959年7月10日、10頁。
- ^ 3年後の児島明子に抜かれるまで、歴代のミス・ユニバース・ジャパンとして最大のヒップの持ち主
- ^ 「ミス日本馬場祥江嬢ら YNS会長と内山知事訪問」『装粧品新聞』第88号、財団法人日本粧業会、1956年7月5日、15頁。
- ^ 「ミス日本桑村へ」『装粧品新聞』第88号、財団法人日本粧業会、1956年7月5日、13頁。
- ^ “1956”. pageantopolis.com. 2021年4月20日閲覧。
- ^ 「ネッカチーフ・ショウ 大阪でY・N・Sが開催」『装粧品新聞』第104号、財団法人日本装業会、1956年12月15日、8頁。
- ^ 「最近の芸能界」『時事世界』第10巻第12号、時事世界社、1956年。
- ^ a b 「23年間のミス・ユニバース 美女の運命はいかに?」『週刊朝日』第79巻第20号、朝日新聞社、1974年5月3日、139-143頁。
- ^ 「馬場さん婚約 「サンフランシスコの二世でスキ焼店経営者野島昇さんと婚約、来月半ば式を挙げる」」『朝日新聞』、1958年6月24日、東京夕刊。
- ^ a b 「元ミス・ユニバース日本代表 野島祥江さん(1-4)」『産経新聞』、2000年10月30日、東京夕刊。
- ^ この記事によると同店の開店直後、サンフランシスコ講和条約の調印式が行われた1951年9月8日には、夜遅くになって日本側代表団の随員や日本からの新聞記者らが大勢食事に訪れたという
- ^ 「米国に和食伝え50年、サンフランシスコの「東京すきやき」惜しまれつつ閉店」『福島民報』、2000年11月25日、朝刊。
- ^ 「“夏枯れ”の流行歌 8月 良作わずか一曲」『読売新聞』、1956年8月6日、夕刊。
[続きの解説]
- 馬場祥江のページへのリンク