韓珩
焦触から任命を受けたとは考えられないので、袁煕時代からの別駕従事なのだろう。 清廉なうえ雅量があり、若くして父母を失うと兄や姉に孝養を尽くしたので、一族の者は孝行者と評判した《袁紹伝》。 建安十年(二〇五)正月、幽州刺史袁煕の大将焦触・張南が袁煕に叛き、焦触は幽州刺史を自称して諸郡の太守・県令を駆り出し、曹操に降ることを決めた。白馬を屠って盟約を固めることとし、「命令に背く者は斬る!」と告げたうえで盃を一同に回していった。 別駕従事韓珩は順番が来ると、「吾は袁公父子のご厚恩を蒙ってまいった。いまそれが滅亡したというに、智慧を絞って救済することも、武勇を奮って死ぬこともできずにいる。義を全うできなかったのだ。それを曹氏に北面することなぞよういたさぬ」と拒絶した。座中一同は彼を案じて顔色を失ったが、焦触は「韓珩の志を遂げさせてやって、君主に仕える者を励ますのもよかろう」と言って許した。 |
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