阿倍小殿浄足
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阿倍小殿 浄足(あべのおとの の きよたり)は、奈良時代後期の人物。氏姓は秦毗登のち阿倍小殿朝臣。伊予国の人。官位は正七位上。・越中目
経歴
その記録は称徳朝に集中して現れている。
『続日本紀』には、天平神護2年(766年)3月に、伊予国の人である従七位上秦浄足ら11人が「阿倍小殿朝臣」姓を授かった旨が記されており、その際に浄足の言上した浄足の言葉が記されている。
「孝徳天皇の朝廷は、大山上の安倍小殿小鎌を伊予国に派遣して、朱砂(赤色の顔料)を採掘させました。小鎌はそこで、秦首の娘を娶って、子の伊与麻呂を生みました。伊与麻呂は父祖の氏を継がずに、秦首姓ばかりを名乗っていました。浄足はその後裔です」[1]。
史書に現れるのは、この箇所のみだが、同3年(767年)4月2日の越中国司解[2]及び、同年5月7日の同国司解(「東大寺墾田地検校帳」)[3][4][5]には、「正七位下行目阿倍小殿朝臣浄足」と署しており、神護景雲元年(767年)11月16日の同国司解(「東大寺墾田地図目録帳」)に越中目、正七位上と署がある。この時は「調使」ともある[6][7][8][9]。
官歴
注記のないものは『続日本紀』による
- 時期不詳:従七位上
- 天平神護2年(766年)3月3日:秦毗登から阿倍小殿朝臣に改氏姓。
- 天平神護3年(767年)4月2日:見正七位下・越中目(『大日本古文書』による)。神護景雲元年11月16日:兼貢調使(『大日本古文書』・『東南院文書』などによる)
脚注
参考文献
- 『続日本紀4 (新日本古典文学大系15)』 岩波書店、1995年
- 宇治谷孟訳『続日本紀(中)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年
- 竹内理三・山田英雄・平野邦雄編『日本古代人名辞典』5 - 1351頁、吉川弘文館、1966年
関連項目
- 阿倍小殿浄足のページへのリンク